美縁

私は幼い頃から毎日夢を見ている。 一番古く憶えている夢は母に置いていかれる夢だった。 ジャズの音楽が流れる白い大理石の床を歩いていて、右手には大きなクリスマスツリーのあるビュッフェ。母に手を引かれ二階に登るエスカレーターに乗ると、私の視界は母の手と黄色いラインの入った段差だけになった。 暫くその段差を眺めていたが、ふと母の手が離れた事に気がついた。私が呆然としている間に母の手はどんどん高く登っていった。追いかけねばと思ったが、段差が大きく、短い筈のそのエスカレーターは長く、母の姿が見えた時には絶望を感じた。 それでも必死に姿を見失わぬようにと足を進めようとするが、私の足は段々と鉛のように重く動かなくなっていった。泣き叫んで母を呼んだ。聞こえている筈なのに母は振り向かなかった。 こっちを向いて。気づいて。お母さん。 そう心の中で叫んでいても声が出ていなかった。 少しずつ遠のく母を見ながら最後まで叫び続け、最後までエスカレーターを登り切ることはなく視界は真っ黒に染まっていった。 夢から醒めた朝六時過ぎ、皆んなで寝ていた畳の部屋から出ると母が一人ダイニングに起きていた。 私は安堵で泣きじゃくり、愛おしそうに抱きしめてくれる母に泣き止むまで甘え倒した。 その話をなんとなく小学生の時に母にすると 「よく憶えてるね。しかも時間まで。あの時は何事かと思ったわ。」 と言われた。時計も読めない年頃の記憶なので、後付けの記憶もあるのだろうが、全ての感覚が余りにも鮮明でとても忘れられない不思議な記憶。

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