詩的であり文学的であり哲学的である
(あとがき的な)内瀬緋月記す 物書きとして思うことがある。 いぬいりんこは、ある種の天才だ。 この作品に内包されているファクターは多岐にわたっていていて、一見取っ付きやすい文章なのに、深く考えさせられる事になる。 他の作品もそう、シュレディンガーの子猫、漱石の猫、いいかげんe.t.c (拙者がSFを苦手とするのでファンタジアシリーズは割愛させていただく) 先生の描く物語は、優しく柔らかにしてその内側に人の闇や人の心の生々しさをも感じさせる。 この多様性をひとつに纏め、それを更にさらりと読める文章に昇華する技量。 文体は抑揚もなく淡々としているように見えて、人間の内面や心のひだを詳細に描き出す。 しかしここで恐ろしく感じるのは、詳細に描き出しているはずなのに、必要以上には描いていないこと。 才能ある物書きなら、ともすれば俺の技量に酔いしれて、無駄にツラツラと「これでもか」とでも言いたげに心情や描写を投入してくるであろう場面で、いぬいりんこ先生は取捨択一をして、必要な部分は詳細にしかし我々読者が感じるための余白というか余韻はきちんと残してくれるのである。 それ故に我々は、与えられた情報を元にそれぞれでその内容をかみ砕き、それぞれの解釈でそれを嚥下することが出来るのだ。 それ故に、読んだ人の数だけモノ思えるわけである。 私も物書きの端くれだが、この才能には嫉妬を禁じ得ない。
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