小池正浩

 ふと、実際に撮った写真の人物や背景の一部分を自由に、かつ自然に消したり付け足したりできることを当然だとアピールするGoogle Pixelの編集マジックとやらのCMを目にしておもったのが、いやはや、いよいよ、いやいや、つくづくというべきか、現実の変容(編集ともいう)もここまできたか、と。たしか、もう何年も前に批評で僕はもうひとつの、べつの、異なる世界をリアライズする「仮想現実(Virtual Reality)」とか「代替現実(Substitutional Reality)」とかいった技術革新や認識変更より、いくつもの世界が複雑に繋がり、重なり、混ざりあうことになる「拡張現実(Augmented Reality)」のほうが、これから影響が大きい、より人間の根源的な実在に根ざしたものであるがゆえに、新しい現実になりうるのではないか、と論じたおぼえが。おおむね予測どおりといえるいっぽう、ちょっとちがったのは「複合現実(Mixed Reality)」というんですか、オルタネイトしたりオグメンテッドしたりしているというより大勢の実感としては、現実じたいが多様化しているといった感覚でしょうか。VRにしろSRにしろ、はたまたARでもMRでも、「世界線」という言葉が一般に膾炙したところをみると、どうやら人間にとって現実世界はたったひとつのユニヴァーサルでも、確固たる不動の絶対的な基盤でもないようです。  それでいうと近頃めっきり、宮藤官九郎の脚本作品が注目度高い。クドカン作品の本来もつあの「ゆるい繋がりのコミュニティでいいじゃない」的な、肝心なところで結局、家族とか仲間とかいった血縁や地縁でしかないローカルな共同体を刹那的に復活させることになっちゃう、「繋がらない自由」を否定しかねない排他的でなくとも現状追従的な、閉塞感を見えなくするあの空気がどうも苦手で今まで敬遠していたのですが、ドラマ『不適切にもほどがある!』で見直したというか。次の『新宿野戦病院』、リメイクの『季節のない街』『終わりに見た街』を観ても、さすがのクドカンも昨今のこの空気感に否を唱えたくなったらしく、どれも問題提起のかなり攻めた内容に。「伏線を全部は回収しなくていい」といったような、作中人物の発言からしても『ふてほど』はタイムリープものではなくメタフィクションとして評価すべき、というのがようするに僕の見解です。

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