これは東国武士である源氏が西国武士である平家を倒した。 だけでは止まらず、畿内にあった朝廷の支配から坂東(バンドウ)の地が独立した政権を確立した瞬間でもあった。 これまで西国の人が東国へ行くことがあっても、東国の人が西国へ行くことは防人以外になかった。 それも東国の人が西国へ行くのは鎌倉幕府の地頭(年貢の管理者)として行くのである。 それは今まで日本の歴史上にはなかった様々な火種が撒かれた瞬間でもあった。 その不平不満が爆発した時に起きた合戦が承久の乱である。 承久の乱も『源平の合戦』と同じように東と西の対立だ。 東が北条政子で西が後鳥羽上皇である。 これは鎌倉幕府の権力者が
1件1件
『坂東地域の生産性』 注意、以下の数字目録の抜粋資料。 ・中世年貢品目『正倉院文書』 ・戦国時代貫文高『北条氏所領役帳』 ・織豊時代石高『慶長検地』 『モデル地域、相模国(神奈川県)』 以上の前提条件で述べてみる。 まず中世での年貢品目では、相模国は年貢が米ではなく布である。米を年貢で納めるのは西国が多く、坂東の東国では布、綿、絹が多い。 坂東で米を年貢として納めているのは唯一上総国(千葉県南部)であり、米だけではなく、布と油を含めたものを租税として提出していた。 この問題は米は重量があり、交通網の不備や船での輸送を必要とした為に……と言われているが、坂東地域だけでなく奥州(東北)も
1件

0/1000 文字