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高杉晋作は天保10(1839)年長門国萩城下菊屋横丁にある高杉家に生まれた。菊屋横丁は主に上級・中級武士達の屋敷が集まっているところにある。父は小忠太、母はミチ、晋作は二人の長男として生まれた。その後三人の子を儲けるが、三人はいずれも女の子であった(名前はタケ・ハエ・ミチと言った)。高杉家の家禄は二百石、家格は大組であった。
※余談だが、菊屋横丁より東の江戸屋横丁には桂子五郎の生家がある(距離にして徒歩10分)。
晋作の少年時代の話は少なく、また信憑性も疑わしい。だが、いくつか挙げたいと思う。確実な話は嘉永元(1848)年の12月~嘉永2年の正月まで天然痘にかかったという話だ。10歳~11歳のときである。晋作は幼少時から病弱であった。
他の話としては、罪人の処刑を友達と見に行ったとき他の子達は怖くなって逃げたのに対し、晋作は刑の執行を弁当を食べながら見ていたという話や近所の子供が怖がっていた金毘羅堂にかかる天狗の面を見るのが好きだったという話がある。有名な話としては、凧揚げをしていて遊んでいたとき、通りかかった武士が晋作の凧を踏んで破ったため、怒って武士に土下座させたという話がある。このような話から晋作は子供のときから負けず嫌いで精神的な強さを持っていた性格と言えるだろう。
明倫館に入学しても性格は変わらず、勉強熱心ではなかった。勉学に退屈し、剣術ばかりに取り組んでいた。
また、この頃元服して春風と名乗るようになる。
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