松下村塾

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晋作は親友の久坂義助(玄瑞)の紹介で松下村塾に入ったと言われている。剣術に熱中していた晋作に久坂は学問をやらせようと考えていた。晋作は松蔭の存在は知っていたが、このときはまだ、会ったことがなかった。それは晋作が剣術に没頭していたことと、家族が会うのに反対していたことが要因として考えられる。事実、後に晋作は松蔭に会うとき、親の目を盗んで会いに行っていた。 松下村塾では行動のための学問を教えていた。後に塾生出身として山県有朋、前原一誠など明治に活躍する人を多数輩出している。 松蔭は晋作を直感力に優れていると評価したが、学問が足りないと考えていた。松蔭は晋作に更なる『知』を求め、彼のライバルであり、村塾で最も『知』が備わっていた久坂義助について晋作のまえでひたすら褒めた。負けず嫌いの晋作は悔しかったため、学問に熱中し晋作の学力はみるみるうちに上昇していった。その『知』は凄まじく、松蔭は事あるごとに晋作の意見を求めるようになっていった。晋作と久坂は互いをこう評している。久坂は「晋作の識にはおよばない」、晋作も「久坂の才は当世無比だ」と互いに評し合っている。これらのことなど晋作と久坂の二人は松下村塾の双璧と謳われ、さらに吉田稔麿、入江九一の二人を加えたとき、松下村塾の四天王と称された。 吉田松蔭は晋作に多大な影響を与えた。 晋作は松蔭により、字の『暢夫』を授かった。
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