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女性客の呻くような呟きを聞いて、真は何の脈絡も無いような言葉を口にした。
「貴女のお名前は?」
それに反応したのか、問われた彼女は体を小刻みに震わせる。膝の上に乗せた両手を握りしめ、怒りなのか恐怖心なのか定まらないままそれを固く握りなおす。
それを見ていた風香もまた、緊迫した空気に蹴落とされ自らの両手を更に固く握った。
やがて、身を震わせた女性客が口を開いた。
「私の……名前? 私……の名前は」
彼女の記憶だろうか。鏡に映るのは、幼い男の子と長い髪を一つ括りにしたまだ若い母親が公園の砂場で戯れている姿だった。
男の子は砂でなんとか城を作りあげ、母親が男の子の顔についた砂を優しく掃っている。
(母親は、この女性客かな? じゃあ……子供もいたのにご主人に浮気されたって事?)
女性客の言動と映像を見る限りでは、そう捉えるのがごく自然だった。 真はそれを見て、哀れむように眉根を落とす。
「そんなに古くは無いですね。まだ……心の整理はつきませんか? まずは名前を思い出して下さい」
「わた……しの名前は――和子」
ようやく名前を口にするも、握られた拳は次第に激しく震える。
その姿があまりに異様で、潮風のせいなのか、風香の背中が妙にじっとりと汗ばんできた。なのに黙って立っていられるのは、真の平然ぶりが唯一の安定剤になっていたからかもしれない。
「では和子様。貴女が心に残っている事は何ですか?」
真は最初の質問を繰り返したが、その時と今とでは状況が違う。
何故なら、鏡には和子の中の記憶が鮮明に映し出されいる。
そこには、答えを探すように単発的な映像をいくつも繰り出し、ある一点の映像でその動きを止めた。
最初に映ったあの少年が成人式を迎えたであろう映像。細く涼しげな目元の面影を残し、おそらく和子に向けた爽やかな笑顔だった。
その映像を睨み据えるように見詰めながら、和子がぽつりぽつりと言葉を落とした。
「成人式を迎えて、立派な社会人として巣立った私の愛しい子。……それから間もなくだった。あの日、和馬は……」
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