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「ぜ、全部ですかっ?」
女の注文に風香は半ば語調を荒げた。表情も納得いかないとばかりだ。が、女は平然とし、けして太っているわけではないが肉付きのいい片足を膝に掛け唇を尖らせて言う。
「当たり前じゃん。さっさと店長呼んでよ」
落ち着け、落ち着け! と呪文のように自分自身に言い聞かせ、風香は無言でロボットのように踵を返しフロントへ向かいながら真を呼んだが、少し声量が大きくなってしまう。
「店長ーっ! 全部オール全て店長でお願いしまーす! ご指名っでーす!」
少し吊り上がった藍色の瞳はただ無心にフロントの虚空を睨み付けたまま、真に突進しかねない勢いで歩いてきた。
苦笑いを浮かべる真を通過し、バックルームまで入り込みかけたが何とか足を止め隠れるようにフロントカウンターの下に屈み込んだ。
(うぐぐぅ……。あんな人もいるのね! なんっかムカつくぅ)
風香が味わっている苦味を背後に背負いながら、真は無遠慮な女のいるセット面へ近付く。
風香にはこういう体験も必要なんだ、と揺さぶる心を調えさせ最大級の笑顔を女に振る舞った。そして口を開こうとしたが、
「うっそ! アンタが店長? ダッサ!」
――暫くぶりに時間が止まったような気がした。
だが彼は“天使”だ。少々の事は優しく受け止める。
「なんなら帰って頂いてもよろしいですよ?」
彼の爽やかな笑顔と刃のような言葉――は、女の心を乱すには十分だったようである。
女は口ごもりながら、自分のパサついた髪を弄り取り繕うように軽く溜め息をついた。
「ま、いっかぁ。ずっと歩いてきてもうヘトヘトだしぃ。気がついたらやっと明かりが見えたのが美容室なんだもん。ついでにイメチェンしたいしさ。パーマかけてくんない?」
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