†偽りの裏†

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 こういう言葉は、案外よく耳にするようでしないのだ。  自己防衛という、他者から見た自分への恥ずかしさから言う人もいる。だがナナの言葉は明らかに風香の不快感を配慮したものだ。 (なんて優しい子なんだろう)  立ちのぼる水蒸気に混ざる匂いはツンとして風香の鼻を曲げるには十分だが、それは最初のお客様も同じである。  この世界にいる以上、最初から綺麗な髪の人はいない――。  風香はシャンプー剤を手に取り、ナナの髪全体に揉み込んだ。 (どうしてだろう。普段もこういう態度でいればいいのに)  そんな事を思いながら、彼女は手順通りに施術していく。  ――すると、ほのかに香る幾つもの花。 (えっ? これって……え? 何?)  ナナ自身から花の香りが何種類も重なり風香の鼻腔をくすぐる。それが一体何の花なのか……彼女は好奇心に駆り立てられ、香りの正体を手繰ろうと、髪を洗いながら顔を近付ける。  というのも、本来なら香りはひとつの種類に絞られるからだ。が、彼女からは複数の花の香りが発せられ、風香にとっては初めての出会いだったからである。 (これって、やっぱりこの子から香ってるんだよね? えっと……なんか強烈だなぁ。シクラメンはすぐ分かるけどまずは……ライラック? ん? ごぼうの、花? あと……よもぎ? は?)  完全に困惑した。  手繰れば手繰る程、種々雑多に出てくる草花の名前。同時にその花言葉が脳裏にも過ぎるが、整理がつかないせいで風香のシャンプーは果てしなく丁寧で少々長い。 「ぐぉっほん!」  店内に大きく響いた真の咳で弾かれるように振り返る風香。 「げぇっぶぉっほん!」  無理して咳込みながら風香に壁掛けの時計を指差す。通常の倍は時間がかかっていた。それを見てようやく我に返り、彼女は慌てた様子で首を縦に振りシャンプーをする手を止めた。  シャワーのお湯を出しながら、げんなりとした表情を浮かべて自己嫌悪に陥る姿に、やっと終わったか、と言わんばかりの態度で真は胸を撫でおろす。  やれやれ……あのお客さんはちょっと大変そうだな、と真は風香に気付かれないように背中を向けて小さく呟くと共に、深く溜め息をついた。
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