忘れもの、その1(野球の匂い)

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森を出ると 僕はバイクの後ろに結衣を乗せて、昼間通った道を帰った。 バスと歩きで来ていた去年までとは大違いだ。 つい先程まで見ていた桜を懐かしく感じた。 それにしても、あの険しい山道をほとんど息を乱さず往復した結衣のスタミナには驚いた。 この細い体のどこにあんな力があるのだろう。 僕の体をしっかりと掴む結衣の腕の感触が僕にそんな考えを思い起こさせた。 姿勢が良いからだろうか。 一見華奢に見える彼女だが、そこに弱々しさは感じられなかった。 結衣は無口だ。 小学生の頃もそうだったが、最近はほとんどしゃべらない。 付き合い始めの頃は話が途切れないようにと無理に話題を持ち出していた。 しかし、僕ももともとそんなに喋る方ではないし お互いがその静かな空間を心地良いと 感じるようになった。 彼女には話をしなくてもわかっているんじゃないかと思えるような事がよくあった。 たまに声が聞きたくなり、つまらない質問をする。 そんな時、結衣は決まって照れたように微笑み、軽く首を振った。 僕はその度にほんの少しだけ悲しくなり、 彼女を愛しく感じていた。 そして彼女の存在が、僕の狭い世界を広げてくれた。
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