忘れもの、その1(野球の匂い)

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彼女が忘れ物があると言うので学校に寄った。   それはとても珍しい事だった。 彼女はいつもしっかりしていて、 隙がないと思っていたし あらゆる可能性を想定して過ごしているんじゃないかとさえ感じていたからだ。   いきなり連れ出してしまったとはいえ、 彼女が忘れ物をするということは 米を炊くときに水を入れ忘れるくらい珍しい事のように思えた。 しかしそれは彼女も普通の人間なんだな、と僕を安心させてもくれた。 …学校に着いた時、辺りは薄暗くなっていた。 僕は結衣を校門で降ろしてからバイクを近くの公園に停めて学校に向かった。 学校ヘ歩いて向かっていると、放課後練習中の野球部員の声や金属バットとボールが擦れる音が聞こえてきた。 僕はそんな野球の匂いに妙な懐かしさを感じた。     「…エリがまだ教室にいるみたいだから話してくる。 時間かかるかもしれないから帰ってても良いよ」 と、バイクから降りてケータイを開いた結衣は言った。 「それならテキトーにブラブラしてるから、話終わったら連絡くれればいいよ。図書室にでもいるから、ゆっくりで良いし」 と僕は言った。 すると結衣は少し考えてから軽く頷き 「また後でね」 と言って第二校舎へ向かっていた。 舞野エリは結衣と仲の良いクラスメイトだ。 今頃はどこに行っていたのか聞かれているかもしれない。   学校は今僕がいる校門付近の上空から見ると縦長の長方形のような形をしている。 二つの平行に並ぶ三階建ての校舎とそれらを結ぶ二つの大きな連絡通路。 長方形の奥と左側には大きなグラウンドが一面ずつ、 さらに校門の横には広い範囲に渡ってネットがあり、 その先には野球部のグラウンドがある。   また、長方形の内側には学年全員が集まっても狭くない中庭があり昼休みには生徒の憩いの場になっていた。 そこは花壇もあって悪くない場所だったがいつも人が多かったので 僕は昼休みには屋上にいることを好んだ。   屋上は立ち入り禁止で鍵がかけられていたが 叔父が鍵師で小さな頃から会う度に鍵開けの技術を教えてもらっていた僕にとっては屋上への扉を守っているつもりの南京錠をどうするか、という問題はあまりに簡単だった。   結衣が向かったのは長方形の底辺にあたる昇降口で、ちょうどその二階が図書室だ。   僕はまず図書室には行かず、野球部が練習しているグラウンドへ向かうことにした。
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