・手の中の森の中

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僕は混乱して何度も髭を触り、 意味もなく肘を触り、 洗面所からリビングに戻りソファの前を何度も行き来した。 テーブルの上に置かれていた新聞の日付を見ると 『2012年4月11日(水)曜日』 と印刷されていた。 僕の昨日は… 2007年4月12日だった、はずだ。 ほぼ五年間が過ぎている。 すでに何かの間違いだろうとは思えなかった。 白かった肌は黒く日焼けし、 ほとんど伸びなかった髭はびっしりと生え 視力も低下している。 そしてカレンダーや新聞の日付は五年後だ。 時間が経ったと考える方が自然である。 しかしそれでも五年間を生きたという実感は全くなかったし信じたくはなかった。 僕は事故にでもあったのだろうか? 病気になったのだろうか? それとも魂だけが五年後の僕に入り込んでしまったのだろうか… 弟や妹、友人達はどうしているのだろう? 録音した曲や映像のデータを保存したハードディスクやパソコンはどこへ行ってしまったのか… 様々な想いが頭の中をぐるぐる回っていた。 僕はソファに倒れ込むようにして座って母を見た。 母は心配そうにこちらを見ていた。 そこで、僕は思い出したように手の平を見た。 すると少しずつ頭の中が静かになっていった。 まるで都会の人込みの中を抜けて、森に入ったように。 不思議なものだ。 まさかこんなに落ち着くとは思ってもみなかった。 始まりはわからない。 おそらくただの癖だったのだろう。 それがいつの間にか心を落ち着かせる最も簡単で効果的な手段になっていたのだ。 それからしばらくの間、意識を手の平に集中させた。 頭の中は静かだ。 「手を見てるの?」 と母が言った。 僕は顔を上げ母の目を見て軽く頷き、また手を見た。 「それ、久しぶりに見たわ」 と嬉しそうに母は言った。  「あんたと話すのも同じくらい久しぶり。…何も覚えてないの?」 「…僚と由加は元気?」 僕は質問には答えず、聞いた。   「あまり連絡はないけど…元気みたいよ。」 と母は言った。 それを聞いて僕は深く息を吐いた。 体が少し軽くなった気がした。 とりあえず安心した。   「俺に何があった?」 と僕は聞いた。 聞いた後に空間に違和感が残った。 おかしな質問だ。 時間が、ゆっくりと進んでいるような気がした。 母は少し考え、僕を見て   「あんたは多分…ロストだったのよ」 と言った。 頭の中の、深い部分が痛んだ。
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