桜の世界に

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…この場所は中学の入学式の日に父から教えてもらった。 父は入学式を終えて家に帰った僕を連れて車を走らせた。 そして1時間ほど経ち、 猟師しか入らないような山の中腹に車を止め 僕に車から降りるように促した。 そこからさらに30分ほど道無き道を進み、 急斜面を下り、 川沿いを少し行くと …桜が咲いていた。 10本の桜の木が、悠然と川沿いに立っていたのだ。 僕は驚いた。 学校の隣を流れる川の上流に こんな場所があったなんて、と。 今までも河で泳いだりしたことはあった。 しかしそれは山の中ではあったが、ここではなくもっと下流の方だった。 おそらく山の外からはここは見えないだろう。 うまく日が差してくるので暗くはないが、山のちょうどくぼんだ場所に桜を覆うように崖があり、さらにその上には森があったからだ。 「誰かが植えたんだろう。 何十年も前に」 と父は言った。 その人は川辺に桜があったら綺麗だろうと思ったのだろうか。 その人はこの桜を見れたのだろうか。 何故こんな山奥に桜を植えたのだろう。 そんな事を考えていたのを覚えている。 今となってはどうでもいい。 ただ、毎年春の大きな楽しみの一つを与えてくれた事を感謝している。 「いつか好きな子ができたら連れて来てやれ」 と父は言った。 僕は何でそんな事をしなければならないのかよくわからず、曖昧な返事をした。 帰る時、父に名前を呼ばれた。 それが僕が聞いた父の最後の言葉になった。 「雄梧」 結衣に呼ばれて、過去の記憶の中から現実に引き戻された。 彼女は僕の髪に触れていた。 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。 木の幹から背中を離し、目を擦った。 眠気はもうなくなっていた。 …空の色は少しだけ、夜の訪れを感じさせていた。 結衣は手を下ろすと少しだけ不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。 「帰ろうか」 と僕は言った。 結衣は頷いて僕の手を握った。 冷たく、優しい柔らかな手だった。 僕はその手を軽く握り返し、背筋を伸ばして歩き出した。
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