276人が本棚に入れています
本棚に追加
リビングに入った僕はほとんど無意識に
「…母さん?」
と声を出した。
自分の声がまるで他人の声のように聞こえた。
誰かがテーブルに肘をつき、両手を額に当てていた。
良く見えないが、おそらく母だろう。
眠っているのだろうか…
それとも…
心配になった僕は一歩一歩確かめるようにテーブルに近づき、
母の肩に手をかけた。
すると母は驚き、僕を見て
「どうしたの?」
と聞いた。
やはり眠っていただけだったようだ。
安心して力の抜けた僕は大きくため息をついて母とはテーブルを挟んで向かい合わせになる位置のソファにドサッと座った。
ぐるりと部屋を見渡したが、リビングはそんなに変わっていないようだ。
どことなく雰囲気は違う感じはするが、僕や弟の部屋程ではない。
僕は口を開いた。
「どうしたの、じゃねーよ。母さんこそどうした?」
僕は続けた。
「つーか僚は仕事?
部屋どうしたの?
何で俺の部屋にテレビがあんの?」
…母は固まっていた。
質問には答えず、僕を見ていた。
そして静かに泣き出した。
母が泣くのを見たのは三度目だった。
僕は意味がわからず呆然としてしまった。
上手く想像力を働かせることも出来なかったし、何の余裕もなかった。弟はどうしたのか、
部屋は何故変わっているのか、今は母が泣き止むのを待つしかなかった。
母は必ず何かを知っているはずだった。
それは反応でわかる。
僕はもう一度部屋をぐるりと見渡してみた。
仏壇の父の写真はいつも通りだし、
部屋の配置も変わっていない。
しかしこの違和感はなんだろう…
すっきりしない僕の霞んだ目に電話の上のカレンダーが映った。
先月引っ越した妹が置いていった小犬のカレンダー。
四月。
間違っていない。
しかし何かがおかしい。
すぐに気付いた。
犬の写真が違う。
三匹のビーグル犬だったはずだ。
写真には草原からこちらを見ている立派なゴールデンレトリバーが写っていた。
視線を少しずらした時…僕は本能的に、青ざめた。
…泣き続ける母を見ながら
想像し、混乱し、また想像した。
しかし理解はできなかったし、したくなかった。
それでも体はフラフラと洗面台に向かった。
鏡を見た瞬間、僕の中で何かが音もなく崩れた。
そこには髭を生やした僕がいた。
頬は痩せこけ、
白かった肌は黒く日焼けしていた。
『平成24年・西暦2012年』
カレンダーの年号は五年後だった。
最初のコメントを投稿しよう!