【エルアーク】

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◇故無き逃走劇◇ -2- 向けられた笑みは完璧な美しさを保っていて、○○は自分が置かれている状況、目の前に居る彼女の素性。それらを忘れ、何処か惚けた表情のまま、差し出された手に反射的に己の手を伸ばしかけて。 「あ」 ふと、その笑顔から視線が僅かに外れた瞬間。○○は漸くそれを認識した。 こちらに向かって満面の笑みを浮かべる少女の背後、およそ数メートル。そこに巨大な”何か”が居て、じっとこちらを見下ろしている気配。その上半身は木々に覆われて見えないが、その隙間から奇妙な光が数度瞬いて、○○の視線と絡み合った。 「う、ああ!?」 驚きの後に襲ってきたのは恐怖だった。 ○○は反射的に声を上げると、地面を掻きながら立ち上がり、巨大な何かと、そして少女から背を向けて走り出す。 「ーー、ーー!!」 背後から、少女の叫ぶ声。同時に、ずしんと静寂に包まれていた森に深く、重量感のある足音が響いた。 ○○の耳に届いてくる足音のテンポは一定。そして、全力で駆ける○○から遠のいていく様子がない。恐らく、この足音の主は少女の背後にいた何か。どうやら自分を追ってきているらしい。 何故おわれているのか、その理由はさっぱり判らないが、しかし後方から近づいてくる際に響く大音と、茂る枝葉の合間から見える”何か”の影。その二つの相乗による精神的な重圧には抗い難く、○○は足を止める気には到底なれずに、結局見た事も無い森の中を延々と走り続けて――。 そして、今の状況だった。 (つまりは、成り行きか……) 思い出してみたものの、理由など全く判らない。何故追われているのか。先刻出会った少女は何者なのか。あの巨大な何かはなんなのか。 そして……いや、そもそも。 そもそも、何故自分がこんな森にいるのか。 走りながら、○○は辺りを見回す。少なくとも、自分はこの森を知らない。覚えが無い。そんな場所に、自分がどうして居るのか。 いや、それ以前に。 自分が覚えている事とは一体何だ? そこまで至って、漸く気づいた。 ○○。 それが己の名である事。 自分が覚えているのはそれだけで、それ以外の記憶が何も無い事に。
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