123人が本棚に入れています
本棚に追加
/715ページ
◇故無き逃走劇◇ -2-
向けられた笑みは完璧な美しさを保っていて、○○は自分が置かれている状況、目の前に居る彼女の素性。それらを忘れ、何処か惚けた表情のまま、差し出された手に反射的に己の手を伸ばしかけて。
「あ」
ふと、その笑顔から視線が僅かに外れた瞬間。○○は漸くそれを認識した。
こちらに向かって満面の笑みを浮かべる少女の背後、およそ数メートル。そこに巨大な”何か”が居て、じっとこちらを見下ろしている気配。その上半身は木々に覆われて見えないが、その隙間から奇妙な光が数度瞬いて、○○の視線と絡み合った。
「う、ああ!?」
驚きの後に襲ってきたのは恐怖だった。
○○は反射的に声を上げると、地面を掻きながら立ち上がり、巨大な何かと、そして少女から背を向けて走り出す。
「ーー、ーー!!」
背後から、少女の叫ぶ声。同時に、ずしんと静寂に包まれていた森に深く、重量感のある足音が響いた。
○○の耳に届いてくる足音のテンポは一定。そして、全力で駆ける○○から遠のいていく様子がない。恐らく、この足音の主は少女の背後にいた何か。どうやら自分を追ってきているらしい。
何故おわれているのか、その理由はさっぱり判らないが、しかし後方から近づいてくる際に響く大音と、茂る枝葉の合間から見える”何か”の影。その二つの相乗による精神的な重圧には抗い難く、○○は足を止める気には到底なれずに、結局見た事も無い森の中を延々と走り続けて――。
そして、今の状況だった。
(つまりは、成り行きか……)
思い出してみたものの、理由など全く判らない。何故追われているのか。先刻出会った少女は何者なのか。あの巨大な何かはなんなのか。
そして……いや、そもそも。
そもそも、何故自分がこんな森にいるのか。
走りながら、○○は辺りを見回す。少なくとも、自分はこの森を知らない。覚えが無い。そんな場所に、自分がどうして居るのか。
いや、それ以前に。
自分が覚えている事とは一体何だ?
そこまで至って、漸く気づいた。
○○。
それが己の名である事。
自分が覚えているのはそれだけで、それ以外の記憶が何も無い事に。
最初のコメントを投稿しよう!