序章――存在しない娘――

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 やっとのことで都まで帰ってきた私は、跳ねる心を抑えきれずにいた。  だって私はしてやったのだ。  あの女の育ての両親を殺してやった。あの女が帝に贈った薬を奪って、私が飲んでやった。  これで私はもう何も恐れるものがない。  一番恐いのは死ぬことだ。永くは生きれぬ人の身には、いつも死の恐怖がまとわりつく。  けれど、私にはもう死なんて恐くない。だってそうだろう? 私は不老不死となったのだ!  老いて醜くなることもなく、どんな病でも怪我でも死ぬことはない。  最高だ!  何でも出来る。何だって出来る!  嬉しさが込み上げてくる。私は笑いたくなったが、その気持ちを必死に押し殺した。笑い出したくなるのを堪えるのが、こんなにも辛いなんて……!  着物の裾が翻るのも気にせずに、私は藤原邸への道を走る。  あゝ早く家に帰りたい。早く帰って、父上にお目通りしたい。兄上たちはただの人間で、ただの人間にしか出来ないことで父上の信頼を得てきていたけど、私は違う。  疎まれ望まれぬ私は、しかしもはや徒人じゃない。父上はやっと私を見直してくれるはずだ。兄上たちだって私を見る目を変えてくれるはずだ。  何が出来るだろう? 何をしたら喜んでもらえるだろう?  そうだ。父上の失脚を狙う悪漢から父上をお守りすることも、私なら出来るのではないだろうか。  考えれば考えるほどに、私の未来は過去のそれが嘘だったように色鮮やかになっていく。  兄上たちにしか向かなかった父上の目が、私を見てくれる。あの大きな手が私の頭を撫でてくれる。父上と一緒に夕食を頂くことも許してもらえるかもしれない。  もうこんなみすぼらしい格好でなく、藤原の娘に相応しい華やかな衣装に身を包めるかもしれない。  青天井に高ぶる気持ちが、素足で走る砂利道の痛さを忘れさせる。  あと少しだ。  あと少し。  あの角を東に曲がれば藤原邸だ!    ドン!    やっと帰ってこれた。そう思っていただけに、自分が尻餅なんかをついている意味がわからない。
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