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幾年か経った頃。
「父上……」
十八歳の少年──いや、青年は、ある温泉地の屋敷で天を仰ぎ見ていた。
「頭を使って生きろ、と父上は仰いましたが、これで良いのでしょうか?」
ここは、倭の都から幾らか離れた牟婁温湯(和歌山)。
青年有間皇子は暫くそこに滞在することになっている。
「狂人になったふりをしてまで逃げ出して来るなんて──」
つい溜め息が漏れる。
「私もどうかしているな……」
父が崩御した後、皇太子の葛城皇子は皇位を継がなかった。
しかし、天皇の一人息子であった有間皇子に継がせるわけでもなかった。
天皇には上皇が再び就き、皇太子はその補佐をしていた。
上皇は皇太子に即位を勧めたが、彼は断った。
しかし、実際は彼が実権を握っているのだ。
おかしな話だ、と皇子は常々思っていた。
「しかし、帰りたくないな……」
皇子は呟く。
元はと言えば、都にいるのに耐え兼ねて、狂人のふりをしてまでやって来たこの温湯。
自分は邪魔者扱いされている。
命を狙われている気さえする。
それは、先帝の皇子という身分ゆえ。
天皇に擁立されるのが嫌で、狂人ならば皇位に就くのは不可能だ、と思わせる魂胆でもある。
しかし、ここの景色は綺麗だし、温泉は気持ち良いし、何より煩わしいものが無いのである。
ずっとここにいたいが、そうもいかない。
そろそろ帰らねば……。
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