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「おや?
御自分の事をお忘れですか?」
男は逆に尋ねてくる。
僕はもどかしさを感じながらも少し間を置いて冷静に答えた。
「ええ、此処にどうやってきたのかも分からなくて…
気が付いたら此処に居てどっちに行ったら良いのかも分からなくて…」
男は黙って僕の言葉を聞いていた。
「焦るんです…何か大切なモノを忘れている気がして…」
素直な気持ちだった。
何か落ち着かない、自分の中に『帰らなければならない』という思いが常にあるのは事実だ。
だが僕は帰り方が分からない。
「なるほど…」
男が呟く。
「迷っておられるのですね…」
男はこちらに投げ掛けるでもなく一人で何かを納得するように頷く。
確かに道に迷ってはいるが…
「此処に訪れる方々にはよくある事です。」
男は言う。
「は?」
よくある…?
記憶喪失が?
いくら記憶が無くても常識くらいは心得てるつもりだ。
記憶喪失なんてモノはそうそう起こらない、起こらないのが普通のハズだ。
醸し出している雰囲気といい、この男はできるだけ『関わらない方が良い』タイプの人なのかも知れない。
「あの…」
早く道を聞いて此処を去ろう、変なことに巻き込まれない内に此処を出た方が良さそうだ。「あなたの名前は向井駿介。」
男は僕の話を遮り急に喋り出す。
…それにそれは先刻聞いた。
(僕は自分の名字すら忘れていたわけだが…)
「帰り道を…」
「出身は日本」
…話を聞こうよ。
って日本?
懐かしい響きだ…
男は話を続ける。
「年齢は28、小さい頃に両親が離婚、その後母親の手一つで育ち中学、高校を波もなく平凡に卒業…」
…そうだ…
どうして今までこんな大切な事を忘れていたんだろう…
言われる度に自身の中に入ってくる言いようのない感覚。
「もう…いいです」
暖かい、優しくなる気持ち。
それと共に押し上げてくる、気が狂いそうな焦燥感。
知ってはならない!
認めるな!
僕の中で何かがそう叫んでいる。
「左様でございますか。」
男は『失礼しました』と言わんばかりに頭を下げ此方に向き直る。
鼓動を調えて僕も男に向き直る。
「すみません、僕が言った事なのに…」
「いえいえ、出過ぎた真似をした事をお許し下さい。」
…でもこの人は何故僕の事を知ってるんだろう?
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