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意識が戻った当初、洋介は何も思い出せないでいた。
会社を何時に出て、どの道をどこへ向かって走っていたか‥車だったのか、バイクだったのか。
その日が自分の誕生日だったと言うことさえ。
しかし、その記憶の欠落も少しずつではあるが、日が経つに連れパズルのピースを繋ぎ合わせるかの様に、全容が形を成してきたのである。
ただ、洋介が発する意味不明な独り言に、周囲は時折ぎょっとさせられるが、医師によるいつか無くなるだろうという楽観的観測に不安視する者は居なかった。
黒いセダンが猛スピードで遠ざかって行く……
同じ事何回聞けば気が済むんだ。
俺は同じ言葉を何度繰り返せばこの苛立ちから解放されるのだろうか。
洋介は、話し終える頃には決まって不機嫌を顔に表していた。
「あれ?田中さん一昨日話したのと少し変わったろ?」
「え?一昨日?覚えとらんよ」
「たしか‥スピードを上げて黒いセダンに並んだ時、容疑者と目が合ったって…」
「ああ!目が合ったようなって言いましたよ確か!」
そう言って、顔を上げた洋介はハッとしてしまい、慌てて刑事の目線を探した。
刑事の後ろに、先程の留美が点滴を抱え、美奈子に並んで立っている。
「刑事さん、もうやめよう。今から点滴するとでしょう?ねえ!」
「出来れば…」
刑事と美奈子は洋介の目線をたどり、ようやく看護師の存在に気付いた様だ。
「田中さんも疲れてるみたいだし、これもありますし…」
留美は微笑みながら、手に持つ点滴のボトルをくいっと上げた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
「あっ‥洋介、今日は私も帰る」
そして、じゃあなと手を振る洋介に、美奈子は微笑みを返しながら刑事と一緒に病室を出て行った。
「田中さんも大変ですよね」
「ちょっと待てよ…飛ばされよう時か飛ばされた後か覚えんけど、耳元でなんか聞こえたっちゃんねーなんやったっけ?」
「え?それは重要な事なんですか?」
「ん……思い出せん」
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