記憶

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  「わぁ…明るい!」 車から飛び出した藍は、柵の傍で感嘆の声を上げた。 「他に言葉はないのかよ。『明るい』の他に」 丘の下は住んでいる街の夜景がほんのり明るく、蛍の光のようだった。薄暗い空の奥で、欠けた月がやわらかい光を地上に届けていた。遠くに見える海は、今日は静かだ。 「今夜は冷える。早く帰るぞ」 潮風が少し強い。藍には辛そうだった。 「…もう少し、ここに居たいよ」 藍は、街を見ていなかった。 心の中に映し出された虚空をじっと見ていた、というべきかもしれない。 星が1つ2つと現れる度に、藍は更なる無を見ている。…いや、駿にとっては『無』かもしれないが、彼女にとっては完全な『有』の世界が映されているのだ。 彼女には1人にならなければいけない時間がある。他を受け付けず、全くの無に心を寄せる時。それは安定した心を保つための、心の整理の時と言えるだろうか。 とにかく彼女は虚無の世界、虚無の時を不定期で必要とする人間なのであった。 それを知っているからこそ、駿は藍をこの丘へ連れてきた。もう5年の付き合いだ。それくらいは駿でもわかる。  
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