はじまりの雨

3/3
前へ
/4ページ
次へ
昼を少しまわったデパートは人が多く、結局私の飲みたかった味の生ジュースは売切れで、武流は二番目に好きな味のジュース(パインとセロリのやつ)で妥協した。人混みが苦手な私は、デパートを早々に退散して、中野屋に避難することを提案した。デパートに来る人々を観察するのが趣味の武流は渋っていたが、結局、蜜豆とわらび餅を両方頼んで良いなら、という武流の条件を私が飲みデパートを後にした。 中野屋は小さな路地を入り、更にいくつか角を曲がったところにある本当に小さな目立たない店だ。儲かっているのかいないのか、そもそもそんなことには関心がないのか、店主のおばさんも無愛想だし、値段も馬鹿みたいに安い。それでも、一応看板はでているし、他にお客さんもいないし(時には貸し切りのこともある。そんな時は何時間でもそこらに放り出されている数年前の雑誌をめくり、いつの間にかうたた寝をしてしまう)、味は文句なしなので私と武流のお気に入りなのだ。 「蜜豆とわらび餅。それとグレープフルーツゼリー」注文を済ませ、近くの雑誌に手を伸ばす。去年話題になった映画の主演男優が表紙を飾っているやつだ。ここでは比較的新しい。さぁ読もうと雑誌を広げたとき、誰かが店のドアを開いた。ベルの音が鳴る。それに続いて背の高い影が視界に入る。ふと顔を上げると、目が合った。華奢なフレームの眼鏡。少し見開かれている眼。何か言いたげに唇が僅かに開いたが、 「いらっしゃい」 というおばさんの声で彼はあちらを向いてしまった。 「コーヒーを」 低い声で告げると、私たちに背を向けて持参の新聞を読みはじめた。 「雛子の知り合い?」 武流が囁く。 「違うよ。武流の知り合いじゃないの?」 ぶんぶんと武流がかぶりを振る。 人違い。そう結論づける事にした。ただ、ほんの少し心にひっかかる物があったけれど。しかし、ほどなく注文の品がきたので、そちらに集中することにした。そして、いつの間にか彼も店を出ていた。私たちの気付かない間に。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加