[まずは迂回して…]

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「すみません。少し、お時間宜しいでしょうか?」  ここ数年間は聞いたことのないような丁寧な口調と言い回しだった。  はい? と、顔を上げるとそこには一人の見知らぬ人間が立っていた。紺色の髪に黒縁の眼鏡が印象的な美しい顔立ちの女性。いや、それ以上に印象的だったのは彼女自身の格好だった。今の普通の世の中ではみる事の無い、あるとすればメイド喫茶と言う処ぐらいでしか見ない服装。つまり、メイド服だった。そして公園の外には、それが当然であるかのように思わせる黒塗りのベンツが鎮座していた。 『………』  俺は一瞬の硬直の後、何事も無かったかのように視線をパンに戻した。いや、何事も無かったんだ。間違いない。そして再度包みを開けようとする。 「すみません。少し、お時間宜しいでしょうか?」  さっきより口調が少し強くなった。信じたくはないが、そこに居るメイドさんは俺に声を掛けているようだった。 『俺……ですか?』 「はい、貴方様です。因みに半径五十メートル以内にはわたくし共と貴方様以外おりません」 『はぁ……。で、何でしょう?』  実際の処あんまり構わないで欲しかった。個人的にも、人目的にも。 「はい、実は貴方様が現在手に握られている焼きそばパンを御譲りしてはもらえないかと交渉しに参りました」 『嫌です』  即答。上手く状況を飲み込めなかったので、まずは断ってみた。 『なんでこの焼きそばパンが欲しいんですか?』 「それを話すと長くなりますので割愛させていただきますが、ただ、それを御譲りしていただかないと一人の女性が悲しみ、また一人の女性が辛い思いをしなくてはならないだけです」  なんだかんだで凄いこと言ってないか? この人。しかしまぁ、パンの一つくらいあげたっていいかもな。 『じゃあ、もし良かったらこのパン――』 「そうですね……、解りました。只でとは言いません。その焼きそばパンは、一体御幾なら御譲りしていただけますでしょうか?」  俺の話を掻き消しながらの提案だった。どうやら俺が只では譲ってくれないと踏んだのだろう。  まぁ、相手がその気ならいいかと少し悩んだふりをした後、無言で人差し指を空に向けた。
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