千空の場合 2

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「う、美味いいいっ!」 「あんた、へこたれねーな……その魚を食って死にかけたんだろ? 肝が座ってるっつーか、何つーか」 「何言ってるんだ。肝は座る物じゃなくて、食べる物さ」  ニカっと笑い、刺身の一切れを口に運ぶルフ。  昇り龍の意匠が施された青い着流しの袖が優雅に揺れ、彼は再び「う、美味いいいっ!」と繰り返す。  小皿に盛りつけられた刺身は、瞬く間にその数を減らしていった。  そう、彼の命を救ったのは、瀕死の彼が毒沼の汚水と共に生きたまま捕らえていた毒魚、そのの肝から抽出された物質なのだ。  呆れ顔の少年はそんな事を知っているはずもないのだが、刺身をつまむ事に集中しているルフは、そこまで気が回らない。 「しっかし、ルフさんも命知らずっすねえ。生きたままのヘドゥオを丸かじりなんて、正気の沙汰じゃないっす」 「死なずに済んだんだから、結果オーライさ。ほれ、俺の奢りだ。食べておけ、恩人」 「い、いや……遠慮しとく」  ルフの薦めを、彼を人里まで担いで運んだ恩人、緑のパーカーの少年は丁重に断った。  それじゃあ、と差し出した刺身の一切れを頬張り、着流しの袖に描かれた昇り龍が次の小皿をロックオンする。  今しがた割り込んで来た声の主が持つお盆の中央、そこに鎮座している小皿がまさにそれだ。  無論、小皿の上には毒抜きされた毒魚にして珍味──ヘドゥオの刺身が盛られていた。 「で? 調理前のヘドゥオって、どんな味がするんすか?」 「なんだ、叶(カナエ)は食った事ないのか?」 「そりゃ、ヘドゥオは毒の強さと調理の難しさで有名な魚っすからねえ。死にたくないっすから、毒を抜いた物しか食べた事ないっすよ」  ニコニコと笑う釣り目の青年が口にした言葉は、ひどくもっともな意見だった。  彼、叶はここ〝名も無き食事処〟の料理人である。  街の超一流レストランからスカウトが来る程の腕前を持つ彼が、何故こんな辺境の小さな食事処で働いているのか、それを知る者はほとんどいない。  が、ともあれそれほど料理に精通している彼が、毒魚を毒抜きせずに食べて食中毒で死亡、なんて洒落では済まないのである。  富や名声に興味が無い彼にも、料理人としてのプライドはあるのだった。image=406961374.jpg
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