名も無き●の場合

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 事の始まりは小さな“穴”だった。  小さな。  とても小さな。  その中は全く光が射す事は無く、かと言って暗闇に覆われている訳でも無い。  そんな灰色の無があった。  否。  無ゆえに“無かった”のか。  ともあれそれは、ある日突然現れたのだ。 「何だろうね、これ」  彼には名があった。  台詞も用意されていたし、細かい設定も持っていた。  胸踊る見せ場もあったし、肝を冷やす危機もあった──はずだ。  しかし、彼はそう言った。  言ってしまった。  台本には無い台詞だ。 “それ”が現れなければ、決して言う事は無かったであろう、そんな台詞。 「穴……だよな? 何処に通じているんだろう」  彼は問う。  しかし、それに答える者は誰も居なかった。  当たり前だ。  この場にいる者で、細かな設定を持つのは彼だけなのだから。  そう、●達はそれに対して何かを思う個性すら持たされていないのだから。  そのはずだから。  そして、●も彼もその事に疑問を持つ事がなければ、気付く事もない。  それが、●達にとっては当たり前な事であり、真実であり、仕様なのだから。 「石でも投げ入れてみようか」  彼は手近な石を手に取り、その小さな穴の中に放り込む。  十秒。  二十秒。  三十秒。  ……一分。  ………………。  石が穴の底に到達して何かにぶつかる音は、聞こえる事が無かった。  この小さな奈落に、底は無い。 「うわ、危ないなあ。よく分からないけど、これに近づいちゃ駄目だね」  確かに彼の言う通りだった。  が、この時の●は結局この穴?が何なのかなんて知らなかった訳で。  だから、●は定められた脚本通りに動くだけ。  穴がここに有っても無くても、●には関係が無い。  ……そう、●達は人形と大差が無い存在と言えた。
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