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 彼は、とある野望に燃えていた。  栃木県、県北の小さな貸家、その一角の事である。酷く辺鄙な所で、現代的とは真逆の空気漂う、台所がひとつ、六畳が三つの何処にでもあるようなアパート。その一室。  彼は、並々ならぬ様子で、熱心に机にかぶりついている。  目の前には、大量の原稿用紙。彼は、「いいや、違う。ええい、くそっ」、などと罵詈雑言を一人呟きながら、何かを書いているようである。 「武生(たけお)さん、少し休んだらどうですか」 「いいや、今が大事な時なんだ。あと少しで書き上がるんだ」  武生と云うのは、彼の名であり、気を掛けて呼んだのは、妻の聡子(さとこ)であった。 「珈琲でも飲みますか?」  なおも、心配を装う聡子の言葉に、流石の武生も集中の糸が切れ、「ああ、分かった。頂くよ」、といい、俄仕込みの書斎から、足を居間に向ける。  聡子は、台所に行き、珈琲にミルクを容れて持って行く。どうやら、武生の珈琲は、最早、カフェオレのようである。  それを居間のさほど大きくもない炬燵の上に置き、眼前に座って、まじまじと武生の顔を見つめた。 「窶れたお顔」  ふっとこぼす。それを訊いた武生は、笑いとも怒りともしれない、酷く曖昧な顔で返すのだ。そして、「君も疲れているでしょう。朝も晩もパート。本当に済まなく思ってるんだ」、毎度の事のように呟く。武生は、昨今の不景気の煽りを食らい、会社を依願退職させられ、今や、名無しの草的な様相である。
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