1章 1∥ initium

6/6
前へ
/9ページ
次へ
  「レイモンド巡査部長は、引き続き調査をお願いします。  貴方は…聞き込みをしてきて下さい。」 青年へと視線を移したグレッチェルは、未だに彼の名前を思い出せぬまま、そう指示を出した。 そして、青年が歩いていったのを見計らってレイモンドを掴まえると、彼に問い掛ける。 「先ほどの青年、彼の名前、分かりますか?」 耳打つグレッチェルを迷惑そうに見返しながら、レイモンドは呆れた、とでもいうような表情を作った。 「またですか?」 「生憎、私は人の名前を覚えるのが苦手なんですよ。」 悪びれる様子なく言ったグレッチェルを一瞥(いちべつ)すると、レイモンドは、一度青年へと眼を移し、口元に手を当てそっとグレッチェルへと告げる。 「ファーストネームまでは分かりませんが、彼は確か『カーター』ですよ。」 「そうですか…ありがとうございます。  いつも迷惑をかけてすみませんね。」 全くあんたはいつも、などとレイモンドに文句を言われつつも、グレッチェルはもう忘れないよう、その名を心の中で反芻(はんすう)する。 小言を言われ慣れてはいるが、それが面倒かどうかは別の話だ。 それに、名前も覚えていないなんて部下に面目(めんぼく)が立たない。 「これからは忘れないようにして下さいよ。」 そう言うと、レイモンドは今度こそ本当にグレッチェルから離れ、現場に残されているであろう事件の痕を探し始めた。 グレッチェルはと言えば、未だに青年の名を繰り返していた。 綺麗な秋晴れの空の下、事件は発覚した。 それに憂鬱な気持ちを吐き出すよう、グレッチェルは溜め息を吐いた。 空が綺麗なことが、彼の気持ちを更に消沈させたことは言うまでもない。  
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

41人が本棚に入れています
本棚に追加