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誰にも見えない部屋の片隅に、その通路はあった。
開けた瞬間、暗闇と一緒に気味の悪い冷気が身体を打ち付ける。
「先せ…怖い、です」
「怖がることはない、そう…何も怖がることなんかないよ」
背後から彼が背中を押す。
だが、今の円香には…肌を打つ冷気よりも、身体を飲み込んでしまいそうな闇よりも、
別人のように抑揚なく私に語りかける、
キリトという一人の人間が何よりも恐ろしかった。
「私の意識は確かに六年間喪失された。だが、その中で私ははっきりと‘視て’しまったんだよ」
止まれない。止まれば円香の背をキリトがなぞるように押す。
振りかえれない。振り返ったその先にあるものが、酷く曖昧に思えてきて、見えないことがなお一層 恐怖心を煽る。
「先生…言っていることが分かりません。もう、やめてください…」
コポコポ 水のような音が闇に生まれる。
「アレは一体なんなのか。私が長年生きていた中で、アレほど心に詰まったものはない。物事の意味を探り続ける学者の血が冷めていくのを感じたよ…
ヒトでありたいなら、アレの意味だけは…」
‘決して理解してはならないと’
「…せんせい、もう、やめて…」
言葉すらが詰まる、哀願する子供のように呟きながら、その足は止まることすら許されない。
コポコポ、水の中に泡が生まれる音。
四方より成り立つそれはすなわち、大きな大きな息吹の音。
――何がそんなに恐ろしいのか?
――何をそんなに…私は何かを拒絶しようとしているのか?
分からないまま、私は暗闇とヒトと未知の肌寒さに怯える ことしか出来ない。
「…私は、彼等の傀儡でしか無かったのだよ。私の脳髄は彼等のサンプルとして魂の外へと弾き出され、成り代わったもう一人の私は…ただ求め続けた」
ようやく、キリトの声が背後から離れていく。
「この世界の、本当の正体がね」
カチリ、キリトが壁のスイッチを押す。
闇しか無かった空間に光が広がる。
――視界が滲む、闇に慣れた瞳孔が震えるなか、私はその姿を見た。
一本道を取り囲むような巨大なガラスケースの群れ
コポコポと泡を弾きながら、その中のモノは…その中のソレは
「――ぁ」
蕾のような、花のようなイキモノ
枝のような翼を、花弁のような口を、
円柱みたいなスガタをしたソレは、確かにイキテイテ…イキテイテ…コッチを見…
「――」
意識は はっきりとそこで途絶えた。
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