匂い

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微かに煙草の匂いの残る部屋のドアを開けたとたん、泣き出したくなる。 今日は少してこずった。 背後から突き刺したナイフが、いろんなものを切断する感触が、いまだになかなか拭えない。 バスルームに直行して、火傷しそうなシャワーを頭からかぶる。こうすれば、頭の隅にこびりついた、よくわからない嫌な物が溶けて、流れていく気がするから。 血色の悪い肌が赤くなるまでスポンジでこするけど、むせかえるような血の匂いは俺の吐き気を誘う。 いつもそうってわけじゃないけど、難しい仕事の後はたいてい気分が悪い。 ザクッ 泡と一緒に排水溝へ流れていったはずの嫌な感覚が、思い出したように戻ってくる。 吐いて、吐いて、俺は頬を伝うのが、シャワーの水滴なんだか涙なんだかよくわからないうちに、上を向いた。水滴が顔面を打って、バラバラ落ちていく感覚に集中すれば、少しは落ち着いた。 濡れた髪は額に張り付いて不愉快だった。頭からバスタオルをかぶってゴシゴシ拭きながら、ベッドに倒れこむ。そのまま眠ってしまいたかった。 夕方から降りだした雨が、ラジオから流れるお気に入りの曲をノイズに変えてしまうし、どっかの誰かさんが人の部屋で1時間1箱ペースで煙草を吸うもんだから、シーツにも枕にも煙草の匂いが染み付いている。 だけど、と俺は煙草くさい枕に顔を押し付ける。 昔から大嫌いだった煙草の匂いは、今は何となく安心する。どんなに酷い夢をみた後も、この匂いにくるまっていると自然と落ち着く。 眠ってしまってもいいかもしれない。 うつろになる意識の中、コツコツとノックが聞こえた。 どうしようもない疲労感と睡魔に勝てず、結局開きかけた瞼はまた閉ざされる。 コツコツ、 コツコツ、 意識のすみで鳴り続けるノックは、パタリと止み、代わりに聞き飽きた声がドア越しに鼓膜を揺らす。 「イルーゾォ?帰ってんのか?」 腹の中にビリビリくる低い声。おせっかいめ。 返事くらいはしようと寝返りをうっても、喉が鳴っただけだった。 「飯、食うなら来いよ」 カツン、ともう一度ノック。お前遅いからもう残り物だけどな、と笑いを含んだ言葉は、それっきり聞こえなくなった。 …おせっかいめ。 俺は重たい体を起こして、鏡の中へと滑り込んだ。
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