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歌が聞こえる。波の音。風の音。目の前の少女の可愛らしいソプラノの声。それらが混ざり合って、まるで歌のように、僕には聞こえるのだ。
「まさかこんな所で会えるとは思わなかったな。うん、ホント、ビックリ」
僕に話しかける彼女の口調はとても楽しげで、無邪気で、少しの不安が見え隠れしている。僕はそんな彼女に「あぁ…」とか「うん…」とか、そんな適当な相づちを打つだけだった。
「何年ぶりだっけ?私が小学4年のときだったから、6年ぶりかな」
懐かしいなぁ、と彼女は目を細める。それに釣られてしまった僕は、思わず「そうだね」と答えてしまった。答えてから、僕は自分のバカさ加減を呪った。
「ねぇ、クラスのみんなは元気?って、もう高校生だから、バラバラになっちゃってるか」
少し寂しさを漂わせた声。それでも彼女の表情は微笑みを浮かべたままで、僕から視線をそらすことはない。僕も何故だか彼女から目を離せなかった。
体が熱い。顔が赤くなっているのが分かる。あぁ、汗まで出てきたじゃないか。彼女の照れている訳じゃなく、焦っている。僕は今、これ以上ないくらいに焦っているんだ。頭がうまく働かなくて、何も言えない。彼女ね言葉に応えることができない。
ふと、彼女の表情が怪訝なものになった。無理もない。向こうがとても嬉しそうに話しているのに、こっちはさっきからずっと言葉を濁しているだけなのだから。
「……悠輔?悠輔、だよね?」
震えたソプラノの声が名前を呼んだ。それは間違いなく僕の名前だ。人違いなんかじゃなく、彼女は僕のことを知っている。なのに、
――僕は目の前の少女のことを、何一つとして知らない。
「………ごめん」
「え……?」
見覚えがあるとか、忘れているだけだとか、そんな問題じゃなく、完全に知らない。記憶をいくら探っても、彼女の存在は僕の過去にはなかった。整った綺麗な顔立ちも、可愛らしいソプラノの声も、風になびく漆黒の黒髪も、今、ここで、初めて見る。
「僕、君とどこかで会ったっけ?」
そのはずなのに、何故だろう。今、僕の胸の奥は、虚しい苦しみで満ちていた。
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