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織田信長は、天文3年(1534年)5月12日、尾張の国、那古野城において、戦国大名織田信秀の次男として生まれた。 この時信秀は24歳、そして母である土田御前は信秀の正室である。
元々次男であった信長が嫡男として育てられたのは、土田御前が信秀の正室であった為と言われている。
父の織田信秀は、天文元年(1532年)、今川氏豊の居城である那古野城を奪取し、ここに居城を移して、信長を生誕させている。
那古野城を拠点として勢力を拡大していく信秀は成り上がりのため敵も多く、守護代として尾張国統治と言っても容易な事ではなかった。 だが兼々堅実であった信秀は着々と支配地域を伸ばし、京都に上洛を果たすと、朝廷への献金を認められて従五位下に命じられ、備後守に任命されている。
息子である信長は後に一時代を築く戦国大名となるが、信秀も器量と手腕では負けていなかった。 実際に「尾張の虎」と称されるなど、他国の大名からも恐れられていた。
さて、そろそろ信長生誕の話しについて述べてみようと思う。
織田信秀の子として生まれた信長は、赤ん坊の頃からその豪胆さぶりを発揮していた。 乳母によって乳を吸おうとするが、そのたびに乳首を強く噛むため、世話役達もほとほと手を焼いていたとか。 だがある一人の乳母が信長に乳を与えると、急に静かになってやっと安らかに乳を飲んだのだという。
わんぱく坊主という言葉がピッタリだった信長は、そのまますくすく成長し、一説には女と見紛う程の美男子だったという。
幼名は吉法師で、織田吉法師と呼ばれていた。 その豪胆さは留まるところを知らず、名門織田家の嫡男としてはあるまじき行為として、常々城下町を練り歩いていた。
「信秀様、吉法師様がまた城下町を……小姓数名を従えて練り歩いておりまする……」
「ううむ……またか……」
といった会話も繰り広げられていたのかもしれない。
服をはだけ、町民と触れ合って物を食い散らかし、道の真ん中を練り歩く。
いつしか、この織田吉法師の所業を聞いた他国の大名や町民は、織田吉法師を「尾張の大うつけ」と罵り、信秀はいつも頭を抱えていた。
「吉法師よ、お前は尾張守護代であるわしの息子だ。 他国の大名共にもお前の名は知れ渡っておるらしい」
「父上、吉法師は人の意見に左右されるような者にはなりたくないのです」
「ウーム」
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