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信秀にとって気掛かりなのは、やはり今川の動向だった。 竹千代の処遇を巡り、今川と抗争が起きるのだけは避けたかったのが本音だった。 まだ自らの地位を確固たるものとしておらず、北には美濃の斎藤道三も居る。
実際には信秀は、天文11年(1542年)第一次小豆坂の戦いで今川軍に勝利して西三河の権益を保持しているが、今となっては、今川義元の勢いは侮りがたかった。
そもそも、松平広忠が今川に降ったのは信秀が原因だった。
松平清康が不慮の死を遂げると、信秀は混乱する三河へと侵攻。 天文9年(1540年)に安祥城を攻略して三河を支配下に置いた。
そのため広忠は義元に降り、竹千代の人質問題に至る事になる。
信秀の心理をある程度理解した康光は、ニヤリと笑みを浮かべて答えた。
「何も、拙者もただでこのような事が決められるとは思うておりませぬ。 ここに僅かながら……」
康光はそう言うと、金を差し出した。 後年家康が語ったところによると、この際に1千貫で売り払われたのだという。 これを受諾した信秀は、2年間に渡り竹千代を人質としてかくまうこととなる。
「よし、分かった。 お主の考えに乗ろうではないか」
「ありがたき幸せ」
ここに信秀と康光の交渉は成立し、康光は田原へと帰って行った。 だがこの事実は義元の怒りを買う事となってしまう。
激怒した義元は田原へと兵を差し向け、康光は田原城に篭って長男の尭光と共に奮戦するが、義元の怒りの前に討死した。 この事実は信秀の元に伝えられ、さすがの信秀も危機感を覚えた。
「なに、戸田が滅んだと!? ウーム、このままでは……今川の三河進出は時間の問題か……」
頭を抱える信秀だったが、天文17年(1548年)、対峙する勢力の一つと和睦することになる。 美濃の斎藤道三である。 信秀にも道三にも、互いの力は見過ごせないものであった。 二人はお互いの利益を優先させるため、平手政秀を通じて邂逅を果たし、和睦することになる。
信長もこの和睦を受け、道三の娘である帰蝶を嫁に迎えることになった。 これはもちろん政略結婚であるが故、互いの家の監視役も務めていた。 美濃の斎藤家では、織田家との婚姻式の前日、道三が帰蝶を呼び出した。
「お父様、いかがしたのでございましょうか」
「帰蝶、お前に一つ頼みがあるのだ」
いつもは優しい父の顔が、この時はどこか厳格な顔をしていることを帰蝶は感じ取っていた。
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