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◇◇◇
引っ越しの手伝いを終えて事務所に戻ると、そこに西澤の姿はなく、私のデスクの上には一枚、彼女が書いたと思われるメモ書きが残されていた。
『することが無いので帰ります。西澤』
いつものことだ。
私は汗と涙で濡れた作業服を脱ぎ捨てると、本日最後の依頼に備えて、居住スペース兼自宅となっている隣の部屋で、熱いシャワーを浴びた。
身体が煮沸消毒される幻想を見て、少しシャワーがいとおしく感じたが、途中で水に変わったので、ヘッドを放り投げてやった。
新品に換えてくれようかとも思ったが、残念ながら金がない。
私は、命拾いしたなこのヤロウと呟く。
若干むなしくなった。
やや冷えた心と身体を、白のシャツと黒のパンツで包み込み、再び事務所を後にする。
時刻は午後6時。
指定された時刻までは、まだ二時間程の余裕があるので、ゆっくりと歩いて向かおうと思う。
ビルの階段を下りきったところでクシャミが出た。不敵に笑うシャワーの顔が目に浮かぶ。
次に、依頼主の顔を思い浮かべる。と言っても、見たことはないので十割方想像だが。
西澤によれば、八十代の老婆だそうだ。例によって独り暮らし。寂しくなって話し相手が欲しくなったのだろう。
電話帳には『なんでも屋』として番号を載せているので、それを見たに違いない。
ちなみに、『なんでも屋』という記載は、チワワの一件以降、西澤が強引に変更したものだ。以前は『探偵』と載せていた。
恐らく、あの一件以来『探偵』は、西澤の中で嫌いなものベスト2ぐらいにランクインしたのだろう。きっと、ベスト1はチワワだ。
そんな取り留めのない想像を膨らませながら、街の人混みに紛れて歩く。
こんな時間でも人が減らないのは、多すぎて家に入りきらないからだろう。
それは下らない妄想。
だが、この街の土地と人口のバランスが悪いのは事実だ。
顔を上げると、まだ闇に染まりきらない空には逆に、細い月が独り寂しそうに浮いているのが見えた。
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