月の在処

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 私が、とあるビルの屋上で煙草を燻らせていた時の事である。 「待ちなさい!」  高音域のその声に、振り向いた私は、思わず煙をふかしてしまった。  何故なら、急に女が走ってきたのだ。  大した挨拶も交わさず、酷く女は怒っているようで、私は持っていた煙草が灰になるまで、開いた口が塞がらなかった。  女は、「まだ死んではだめ」、や、「その内、良い事があるわ」、等と些か見当違いな事を半狂乱のように叫んでいて、私には困ったものであった。  私はその頃、確かに気を病んではいたが、勿論たった一人で死を決心するなどと云う強い心も無く、ただ、高い所で空を見上げながら、煙草を吸いたいと思い立ち、一見のビルにただ上っただけである。 「ちょっと、お待ちなさい」、そう私は制したのだが、目の前の女は、涙をぽろぽろと流しながら、人生の美しさ、尊さを惜しげもなく自らの見解で披露してくるのだ。 「……様は見ていらっしゃるから」  其処まで、喋り終えた後、私は女と瞳を交わすに至ったのだが、成る程、私は少しばかり納得をして、女の顔をまじまじと見つめた。  その姿は、私より、年齢は幾つも若いようで、生まれてこの方、何不自由などしたことの無いような、とても上品な顔をした女だったのである。
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