月の在処

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 我々は、その後、一二時間程、意思の通らぬやりとりを繰り返していたが、気付けば、宵もすぐ側まで迫っていたので、「やあ、取り敢えず飯でも食べに行こう」と云う話になり、八階建ての雑居ビルを後にした。  気付けば、得も知れぬ好意が、私の中に明確に形を帯びていた。  ビル街の一角に何処にでもあるような鰻屋を見付け、微かな下心と共に二人して中に入っていく。  日本酒をちびちびとやりながら、話を訊いていると、どうやら家が此処から近いようで、私の心はやはり躍った。  スカスカの、白飯の量だけが無駄に多い並を食べ終えた後で、私は酔いも極まり、女の白い手を握る。女も俄かに握り返した為、何とも云えない恍惚感を胸に宿しながら、女の住んでいるアパートに千鳥足で向かう。  初秋の少し肌寒い宵の事であったが、女の腕は暖かく、何だか不思議な縁もあるものだ、等と思いながらゆったりとアパートとまで歩き、そして寝た。  ただ一つ気懸かりであったのは、彼女の左胸から腹に掛けて、大きな傷跡があった事で、「この傷はどうしたんだい」と訊いても、女は私の首に手を巻き付け、「何でもないの」、と嘯くのだ。 「そんなものか」  私は納得をして、そのまま女の腕に抱かれ、そして眠りについた。
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