蒼碧の森-Raggi di prinavera-

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聖龍の地から出たことのなかったサイカにとって、獣牙の地というところは未知なる場所と言っても、それは過言ではなかった。 それよりも何よりもサイカは生まれながらに体も弱く、幾度となく生死の境を彷徨うことなど当然のことであった。 そんなサイカなのだから、獣牙の地のことなど知るはずもない。 生まれ育った聖龍の地のことすら、弟であるサイガから話に聞くくらいでしかなかったのだ。 そんなサイカが十六の歳を迎えた頃、ある出来事がその運命に激震を与えた。 それは父であるリュウセンがある男と交わした一つの契約、獣卿とも煉獄卿とも呼ばれるアガレスとの婚姻であった。 「父上、私は反対です!何故…姉上が、獣牙のアガレス卿…あの煉獄卿の妻にならねばならぬのです!正気とは思えません、父上は姉上を生け贄にされるおつもりか!」 世間もろくに知らずいつ病に伏せるかもしれぬ姉が背負う運命を、弟であるサイガは当然のこと、父であるリュウセンを激しく糾弾した。 そんなサイガを諭すことも出来ず、さりとてそれをその通りであると肯くことも出来ず、リュウセンはその眉間に深い皺を刻む。 「サイガ、私はもう決めた。そのように父王を責めるものではない」 「しかし…!!」 何も出来ない自分の無力さを恥じるようにサイガは奥歯を噛み締め、そして拳を強く握り、俯いた。 今の自分ではたった一人の肉親すら救う力すらないのだと…、その拳から紅い液体が流れ出す、それは余りにも力を入れすぎたために爪が皮膚を裂いてしまった結果だ。 その拳をサイカは優しく触れて、そして不釣合いなほど優しく穏やかな微笑みを見せた。 ゆっくりと拳から力が抜け、サイガの瞳から涙が溢れ出す。 「きっと大丈夫だ」 どこにそんな根拠があるのだ、サイガは華奢な姉の体を強く抱きしめた。 私に力があれば、誰にも負けぬ力があれば…私はどうしてこんなにも無力なのだろう。 慟哭する優しい弟の心を鎮めるように、サイカは近い未来に一族を牽引するその未熟な男の背中を撫でていた。
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