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湿り気がある風には雨の匂いと夏の匂いが混ざっていた。
7月の空には、天の川の両岸でベガとアルタイルが輝いている。
「ねぇ、ハルくん」
光香はしゃがんだまま、指で足跡をなぞりながら、形の良い口で僕の名前を紡いだ。
眉毛くらいまでに切り揃えてある前髪が、生暖かい風で滑らかに揺れる。
晴彦だからハルくん。
僕のことをそう呼ぶのは光香だけだ。
光香には言っていないけど、実はその呼ばれ方を気に入っている。
そのことを伝えないのは多分、恥ずかしさとかの感情のせいだろう。
「月には永遠の世界があるんだって」
光香の嬉しそうな声が僕の鼓膜を震わせた。
「永遠の世界?」
「そう、永遠の世界。
アポロ11号が月面着陸して30年たった今でも、アームストロング船長の足跡は消えずに残ってるの。
そしてこれからもずっと、何百年後も、何千年後も残り続ける」
月には風が吹かない、雨も降らない。
その足跡を消す要因が皆無な訳だ。
確かに、と思った。
「いいな、私達なんか60年とか70年で終わっちゃう。
だけど足跡はずっと残る」
光香は足跡をなぞっていた指をそのまま横に動かして、傘の絵の中に『晴彦』、『光香』と二人の名前をいれた。
相合い傘だ。
もう古典といえる程に、使われなくなった表現だと思う。
僕が最後にこの古典技法を使ったのは、小学生の時だかに同級生をからかった時だったかな。
「こうやって月の砂に書けば、私達がいなくなっちゃった後でも、ずっとずっと残るの」
隣にしゃがんでいる僕の肩に、とん、と頭を乗せて、寄りかかってきた。
嬉しいのだけれど、ひどく顔が熱い。
きっと光香が使った、この古典技法のせいだ。
「やめろよ、恥ずかしいだろ」
夏の匂いと雨の匂い、そこに光香の匂いが混ざって、思考が真っ白になるくらいにドキドキした。
「あ、ハルくん照れてるんだ。
ふふ、かわいい」
僕の肩にあった心地よい重さが無くなったかと思うと、目の前に光香の顔があった。
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