16人が本棚に入れています
本棚に追加
生死を分かつ白い川を渡ると、狭間の世界は全く見えなくなったが、肇はあまり気にしなかった。
眼の前の膜が取り払われたかのように、頭がすっきりしていた。
吸い込む空気まで清廉になったようで、肇は驚いた。
死者の世界のほうが爽やかだなんて、そんなことがあり得るだろうか。
死者の世界へ続く丘を登りながら、肇は、自分の足が土を踏む音を聞いた。
狭間の世界でも日常的に聞いていたはずなのに、長い間、耳にしていなかった気がする。
緩やかな丘を登り終えると、寒々しい一塵の風が吹いた。
次の瞬間、肇は、遥かに大きく峻厳な山々と、それを凌駕する、巨大な満月を見た。
その偉大な月は、怜悧な蒼白い輝きを放ち、地上の何よりも美しく、黒々とそびえる山々には、碧い靄がたなびき、神秘的な印象を、いっそう強くしていた。
肇は茫然と見惚れた。
かつてない昂揚が身体を包んでいた。
しばらく恍惚に身を任せた後、肇は視線をはがして、丘の下方へ目を移した。
丘の裾から山脈までは、延々と続く黒い荒野であり、まん中に黄色い光源があった。
ひどく人工的な色だったので、それが死者の集まる場所だろうと見当がついた。 肇は、下ろうとして、ふいに立ち止まった。
どこからか、名を呼ばれた気がしたのだ。
辺りに人気はなく、風ばかりが巻いている。
「はじめ」
今度は、はっきりと隣に声がした。
あでやかな女の声だ。
弾かれたように振り向くと、肇の目の前に、見知らぬ中年女性がいた。
肌は浅黒く、面長でえらが張り、鼻はやや上を向いている。
女性としては気の毒だが、その顔は何となく猿を連想させた。
「あんたが肇だね?」
女性は、艶やかではあるが、やや乱雑な口をきいた。
暗がりに、理知的な光を秘めた黒瞳が輝いている。
知らず知らず、肇は敬語で答えた。
「そうです。あの、貴女は何者ですか?」
「あたしは、あんた達が”管理人”と呼ぶ者さ」
女性は、大きな口で笑顔を作った。
そうすると、歯茎が剥き出しになり、ますます猿に似た。
「案内してやるから、ついておいで」
最初のコメントを投稿しよう!