死者の世界

2/3
前へ
/28ページ
次へ
   生死を分かつ白い川を渡ると、狭間の世界は全く見えなくなったが、肇はあまり気にしなかった。  眼の前の膜が取り払われたかのように、頭がすっきりしていた。 吸い込む空気まで清廉になったようで、肇は驚いた。  死者の世界のほうが爽やかだなんて、そんなことがあり得るだろうか。  死者の世界へ続く丘を登りながら、肇は、自分の足が土を踏む音を聞いた。 狭間の世界でも日常的に聞いていたはずなのに、長い間、耳にしていなかった気がする。  緩やかな丘を登り終えると、寒々しい一塵の風が吹いた。  次の瞬間、肇は、遥かに大きく峻厳な山々と、それを凌駕する、巨大な満月を見た。  その偉大な月は、怜悧な蒼白い輝きを放ち、地上の何よりも美しく、黒々とそびえる山々には、碧い靄がたなびき、神秘的な印象を、いっそう強くしていた。  肇は茫然と見惚れた。 かつてない昂揚が身体を包んでいた。  しばらく恍惚に身を任せた後、肇は視線をはがして、丘の下方へ目を移した。  丘の裾から山脈までは、延々と続く黒い荒野であり、まん中に黄色い光源があった。 ひどく人工的な色だったので、それが死者の集まる場所だろうと見当がついた。 肇は、下ろうとして、ふいに立ち止まった。 どこからか、名を呼ばれた気がしたのだ。  辺りに人気はなく、風ばかりが巻いている。 「はじめ」  今度は、はっきりと隣に声がした。 あでやかな女の声だ。  弾かれたように振り向くと、肇の目の前に、見知らぬ中年女性がいた。  肌は浅黒く、面長でえらが張り、鼻はやや上を向いている。 女性としては気の毒だが、その顔は何となく猿を連想させた。 「あんたが肇だね?」  女性は、艶やかではあるが、やや乱雑な口をきいた。 暗がりに、理知的な光を秘めた黒瞳が輝いている。  知らず知らず、肇は敬語で答えた。 「そうです。あの、貴女は何者ですか?」 「あたしは、あんた達が”管理人”と呼ぶ者さ」  女性は、大きな口で笑顔を作った。 そうすると、歯茎が剥き出しになり、ますます猿に似た。 「案内してやるから、ついておいで」  
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加