プロローグ

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 全ての音が消え、闇を纏った絶望が私を見た。  それはあの温厚な王の顔に似ていた。  その目は知性の光を失い、その体には黒く刺青のような奇怪な模様が浮きあがって、顔から何から見える部分を覆っていた。  獣が威嚇するような喉を震わす音と共に、歯牙を覗かせた口元から血と唾液が滝のように垂れている。  たった今屠った彼の敵の血肉を口腔から吐きだし、最後の敵となった私の前に立った。  それは恐怖だった。  絶対に免れることの許されぬ死だった。  体中に浴びせた弾丸をものともせずに、死を超越した獣が私を見ている。  何故?  数時間前は、何の力も持たないひ弱な民族の族長に過ぎなかった男だ。  文明の遅れた、小さな島の王。  文字を持たず、人を殺す武器を持たず、コンパスも地図もなく小舟で大海を航行する無謀な民に過ぎなかったはずだ。  言葉は通じなかった。だが、王は獣の声で私に別れを告げた。    港を出て、ニュージーランドからさらに北上し二日目で嵐にあった。  浸水から計器の一部と通信機器がやられて、太平洋で迷子となった。私たちは海には素人だったのだ。  とりあえず燃料の浪費を避けるため、闇雲に船を動かさずに、近くを他の船が通ることを祈っていた。  船には、私と船の持ち主の息子である同僚の男とその友人、そして同じ会社に勤めている後輩の四人が乗っていた。 一週間分の食料しか積んでいないクルーザーの中に閉じ込められて一カ月も経つころ、私たちは彼らに会った。  この大海原に不釣り合いな小舟に男が二人、のんびりと釣りをしていた。  嵐の日以降、好天が続いたせいで、雨水を獲得できず干上がりかけていた私達は、食糧よりもなによりも水が欲しかった。  「水をくれ」  私たちは言った。  だが、言語が通じない。  おそらくポリネシアの、どこか外国との交流が著しく少ない島の住人たちなのだろう。  身振り手振りで、なんとか自分たちの危機的状況を伝える。  男たちはそれを理解し、持っていた水の入った袋の一つを投げてよこし、ここから彼らの船で三日航行した先に、彼らの島があることを教えてくれた。  私たちは、ほどこされた水をありがたく受け取り、奪い合うようにそれを貪り飲んだ。  彼らの船で三日なら、私たちの船ならもっと早く着くだろう。
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