第1章 炎を纏った少年

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「まぁ、弘樹君じゃない」 「お久しぶりです。師範のお見舞いに来ました」 「まぁまぁ、わざわざありがとうね。ささ、入ってちょうだい」  彼女は弘樹の師範の奥方だ。  名は天神梅子。  梅子夫人は、よく稽古で怪我をした弘樹の治療や休憩時に握り飯を作ってくれるなどかなり世話になっており、今では家族同然の関係にまでなっている。  すぐに屋敷に入れてもらった弘樹は、玄関で靴を脱ぐと真っ直ぐ師範の寝室に向かう。  美しい日本庭園が一望できる縁側を歩き、その途中にある白い障子の前で弘樹は背筋を伸ばして正座した。 「師範、安藤弘樹……参りました」 「―――入りなさい」  部屋の中から凛とした声が聞こえ、入室許可が下りたので静かに障子を開いて中に入った。  そこには、夕日に照らされながら、立派な髭を蓄えた白髪の老人が抹茶色の寝巻きを纏った上半身を起こして小説を読んでいた。  彼こそが第87代目師範格である天神定綱だ。年齢は今年で78を迎える。  弘樹は天神から一メートル離れた場所に正座して礼をした。 「師範、お体の加減はいかがですか?」  天神は本を閉じて弘樹を見る。その瞳にはどこか寂しげなものが含まれていた。 「随分とよくなった。食欲も戻り、こうして本も読める。すまないな、余計な気を遣わせてしまって」 「いえ、弟子として当然です。それよりも早くお元気になってください。まだまだ俺は師範に教わりたいことがあるのですから」 「くっくっく、今更お前に何を教えることがあろうか…………」  一度言葉を切った天神は、障子から差し込む夕日をジッと無言で眺める。  一体何を考えているのかと弘樹が詮索していると、彼は今度は何かを決意した力強い目線を弘樹に向けて言い放った。 「安藤よ、お前がこの道場に通い始めて、何年になる?」 「はい? 今年で十年ですが」 「そうだったな。思えば長くもあり短くもあった。お前は私の稽古によく耐え抜き、今となってはもはや私と肩を並べるまでに成長した。師として嬉しく思う」 「止めてください! 俺はまだまだ未熟です! とても師範と肩を並べるほどには―――」 「謙遜することはない。これは事実だ。そして……もうお前に教えることなど何も無いのだ。私はお前に全てを伝授した。いいか、これから言うことを一句たりとも聞き漏らすでないぞ? 口答えも許さん」  師の絶対的な言葉に思わず頷く。
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