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「おや?どこかで泣き声が……」
ここは、江戸城の鬼門を守護する浅草の浅草寺。
人々の崇敬をあつめ、日中は多くの参拝客で賑わうこの辺りも、夜の闇が訪れると、人の足はぱたりと絶え、まるで異界に入り込んだかのような静けさが漂う。
その声が聞こえるのは、あろうことか、寺の大屋根の上、声の主は、まるで京人形を思わせるような美しい娘である。
そして、その傍らには、夜の闇を溶かし込んだような漆黒の体をした大きな犬。
娘をチカリと見た犬の翡翠のような眸(め)が光る。
「悪戯はよせ」
犬が云った。
「悪戯?」
犬の眸を見返した娘が、フフンと笑う。
「槐(えんじゅ)!」
「なぁ黒文字(くろもじ)、我らが江戸に来て、何年になる?」
槐と呼ばれた娘は、風に乗って微かに運ばれる音を探すように立ち上がった。
「…そうさなぁ…かれこれ百年にはなるだろうか…?」
「百年か…そろそろ江戸にも厭いてきたな」
「だからと云うて、妙な悪戯はよしてくれ。いつもいつも尻拭いをさせられる、こっちの身にもなってみろ!!」
うんざりした顔で犬が横を向いた。
「あ…また聞こえた…」
その時、東の空の彼方がぼぅっと赤く燃え上がり、吹き抜けた風に乗って、火事を知らせる半鐘の音が微かに聞こえてきた。
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