イカロス症候群

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 今が楽しければそれでいい。受験が近づくと焦り出す。そんなものだ。楽しい場所で羽根を広げていると、気づかぬ間に蝋が溶け、翼が折れ、墜落する。僕もイカロスだ。 「アタシも、イカロスになろうかな」  不意に彼女が言って、僕はそちらを見上げる。彼女は静かに微笑んだまま、ダッフルコートのポケットに両手を突っ込んで、ローファーズの爪先を見つめていた。  この日、僕と彼女の視線が合うことはなかった。  生物学など、紀元後に発達した科学では、人間が翼で飛ぶことは不可能だとされている。蝋で固められた鳥の羽で飛んだ紀元前の逸話を、根本から否定する話だ。まず、翼で人間が飛ぶためには、体重が軽くなければならず、胸筋が恐ろしく発達し、頭や手足などの空気抵抗が失われなければならない。第二に、両翼の長さは体長より長くなければならず、羽毛は左右非対称でなければならない。蝋で固めた軽い羽毛では、窓から飛び立った段階で墜落するのが関の山だ。  初雪が降りる頃、僕は受験生向けの模試を受けたり、補講を受けたりしていて、屋上に行く暇はなかった。その間も、下校の際に見上げた屋上に、人の影を見つけてはいたものの、勉強に時間を取られている、という名目で、近づくことはなかった。
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