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「‥…はじめて、かも」
わざと声に出していってみる。
だれもいなくなってしまった静かなこの空間を実感したくなくて。
はじめて座った、そのベンチの木目をそっと撫でる。
そこには小さな傷がたくさんついていた。
「…最初はくだらないと‥思ってたんだけどな」
その傷に指を這わせて、だれに言うでもなく呟いた。
卒業式が終わって、今日のメインイベントはこっちじゃないかってくらいにあちこちで切られるシャッター音。
その人だかりをすり抜けて帰らなかったのは、彼のすがたを見つける自分の習性のせい。
「…無理だろ‥、」
いつものように、後ろ姿を見つけて帰るなんてできるわけがない。
今日まで在った「毎日」は、明日からの日々にはもう無いものなんだから。
彼の帰る後ろ姿が見えないように、だれも居なくなるまで残ってようと決めた。
さよならなんか言えない。
卒業式から何時間たったかもわからないけど、夕暮れになる前に帰ろうと正門に向かった。
こんな日に茜色の空なんて心底ごめんだ。
正門まで、2メートル。
---息がとまった。
「‥…どうも」
視界がぼやける。
思考が。世界が。
すべてが彼に攫われる。
「…な、んで‥」
振り絞った声は掠れて、空気に掻き消されるくらい弱い。
「や‥なんつーか。うん。待ってた。」
「‥だれを‥」
「この状況でそれは無くね‥?」
そう言って、彼は笑った。
あの笑顔を、初めて正面から俺は見た。
心臓がものすごいスピードで鳴ってる。
全身の血が逆流してる。
身体中が熱い。
息ができない。
どうしよう。
どうしようもないけど。
涙が、止まらない。
「ちょ、おま‥」
「‥…せんぱい、好き…」
ほとんど回路のない思考と、その頭の片隅で ああ言っちゃった‥って思った瞬間。
強い力に引き寄せられた。
「来年の、卒業式。ここで待ってろ。
--迎えに来るから」
くぐもるような声で彼は言った。
その声に頷いて、見つめつづけた彼の背中越しに、満開の桜が咲き誇る。
彼の存在が、ありふれた日常に色をもたらす。
それは、桜の色に似ていた。
桜色の、恋を。
end
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