1人が本棚に入れています
本棚に追加
ゆっくりと此方を向いたのは、眼鏡をかけた二十代半ばくらいの若い男だった。
彼はおもむろに口許に片手をやって、私たちに声をかける。
「そこの二人、あと三分以内に教室行かなきゃ遅刻だよ!」
見かけよりも、少し低い独特の音程が、不思議と耳に馴染んだ。
「やっべ、先公か。走るぞ、サク!」
大和が私の右手を掴んで走り出す。自然と私も走ることになる。
「ちょっ、早い」
「遅刻したくねぇんだろ!」
相変わらず強引だ。
無気力気味の私には、これくらいが丁度良いのかもしれないけど。
校門をくぐり抜けた所で手を離され、私たちは息を整えた。
体育はほとんど見学ばかりで真面目に受けていないから、走るのは久しぶりだ。そんなに距離はないのに、運動不足のために肺が痛い。
「はい、セーフ。もうすぐ予鈴ですから、本鈴までに教室に行って下さいね」
にっこりと、眼鏡の向こうで微笑まれる。
私は息切れしながらそれを見上げた。
私の息が整う前に、大和がまた私の右手を掴んで歩き始めた。今度は少し歩幅を狭めて、私に合わせてくれる。
「あ、待った」
先ほどの男が、私の空いている方の手をとる。
長い指が、髪に触れた。
「花びら、ついてますよ」
彼の手には、一枚の桜の花弁。何故かそれを渡された。別に捨てればいいのに、変な人。
「この学校の桜、綺麗ですね」
「……私、桜は嫌い」
そう返せば、少し意外そうな顔をされた。
この人、目をまるくすると、少し幼く見えるんだな。
ふと、鐘が鳴り響く。
私は受け取った花弁を風に流した。
「すぐ本鈴だから、もう行きます」
私は彼に背を向けて、大和と並んで歩き出す。
少しだけ、いつもより鼓動が早く感じたのは、きっと気のせい。
もしくは、走ったせい。
だって、それ以外は私の体は正常だったから。
最初のコメントを投稿しよう!