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村が焼き払われたこと、母親が殺されてしまったこと。この赤子はそれらを微塵も理解してなどいないだろう。
自分を抱いている者が母親の仇であるとも知らず、無邪気に笑いながらしきりに顔に手を伸ばす赤子の子供ながらの笑顔を見つめていた騎士だったが、不意に剣を鞘に収め、その柔らかな髪を撫でつける。
たとえこのまま生きながらえたとしても、その向かう先には残酷な暗黒の道しか残っていないだろう。
未熟で小さな命を腕に抱く騎士の胸に去来する想いは、どんな色にも染まらない無色透明なもの。
「生きていても…仕方がない……」
あえて口にした自分の言葉に最後の一歩を後押され、髪を撫でていた手を赤子の首元へと移動させる。
伸ばした指に羽毛のクッションのように柔らかい肌が触れ、一瞬だけピクリと跳ねて止まった指が、思いきったように細く小さな首を押さえつけた。
その途端、赤子の笑顔が消え、小さな呻き声を洩らしながら何かを掴むように手を動かしている。
あと少し力を込めれば、首の骨を折ることなど容易いだろう。
人間として全ての感情を押し殺し、腕に力を込めていった。彼女の表情は変わらない。その手には首を折ろうとさらなる力が込められて、そして――。
「……っ!」
虚空を掴んでいた赤子の両手が兜の隙間から彼女の頬に触れ、まるで助けを求めるかのように押し付けてくる。
彼女の心臓は大きく跳ねた。自分の行動を正当化させるために触れまいと、心の奥に封印したはずの感情が蘇ってくる。
「あ…あぁぁ……っ」
もうだめだ、一度溢れ出した涙は止まらない。自分が侵そうとした行為の恐ろしさに体が震え、どうしようもない感情に支配されていく。
手を離し、苦しげに咳き込む赤子を抱きしめて彼女はぺたんとその場に座り込んでしまった。涙と共に様々な想いが溢れて、頬の上を止め処なく流れ落ちていく。
しばらく泣きはらした後、騎士は赤子を大事に抱いて立ち上がり、戦火の少ない方向へと向かって歩き出した。
あまり人の手が及ばない場所で、この子と共に生きていこう。これが罪の意識に対する償いになるのかはわからないが、この子を立派な一人の人間として育て上げてみせる。
本来の輝きを取り戻しつつある胸の内にて、銀色の騎士は周囲から立ち込める黒い煙幕の中に紛れるようにその場を立ち去るのだった。
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