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遠くにサイレンが薄っら聞こえ始める。だがボリュームは一向に上がらない。FMラジオからは無味無臭、と言うこと以外、まるで印象に残らない交通情報に特有の小奇麗なBGMが流れ、そして告げた。「関越道下り線、三芳パーキングエリア手前で人身事故。新座料金所まで5キロの渋滞」 運転手の言ったとおりのようだ。
「本当にバス停があるんですか?」
九は確認した。
「ええ、本当にありますとも。標識は立っていませんけどね」
夜の高速道路で車を追い抜いて歩くと言うのはどんな気分なのだろうか。彼女は思う。一生のうちに有るか無いかの経験になることは間違いなさそうだった。初夏の夜だ。別に真っ暗なわけじゃない。九は運転手の提案を受け入れた。
「ここで降ります」一万円札を渡し幾らかのつり銭を受け取るついでに、ようやく聞きそびれた質問をぶつけることができた。
「ボーっとしてて忘れちゃったんですけど、ワタシ、どこからこの車に乗ったんでしたっけ?」
注意深く選んだもっとも不信感の生まれそうにない訊ね方のつもりだった。
「渋谷の東急本店、というよりオーチャードホールの所でしたね。10時過ぎでした。前のお客さんを降ろしているところにアナタがやってきたんです」
「オーチャードホール。ああ、そうでしたね」 九はそうそうとばかりに頷いてみせた。
「でもお客さん、コンサートホールに行ったんじゃないでしょう? その服は結婚式の格好ですよね」
「分かりますか? スゴイですね」
「いや、はは、これでも長年の客商売ですからね。はは。ご乗車ありがとうございました」
運転手が例の人の良さそうなしゃがれ声で言うと、スッと自動ドアが開いた。目にとまったタクシーカードをドアの袖から一枚取り、彼女が道路に降り立つと、高級車らしい「カボッ」という重そうな空気の音。それは宇宙船のハッチが閉まったかのようだった。
いつの間にか助手席の窓が降りていて、運転手の声がした。
「お疲れ様でした。『今日は変わった一日』でしたね。ではお気をつけて」
「ありがとうございます」彼女はそう応じた。確かにこんなところを歩くハメになるなんて今日は変わった一日に違いなかった。
蒸っとした暑さがすぐに彼女を包み、かっちりしたセミフォーマルスーツの上着を脱がせた。光沢のある白のブラウスは豊満な胸を強調していた。
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