九_1

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 学校を出て社会人になっても誰も彼女の本名は呼ばない。彼女の呼び名はいつも「キュウちゃん」であり、それは憲法みたいに誰かが決めた、すべての人が守るべき義務か、あるいは重要な権利のような事だった。別に困りもしないが、逆に「サザラシです」と名乗った場合は、必ず漢数字で「九」と書いてそう読むのだと、いちいち説明する必要があった。そのうえ、どこの出身かと訊ねる人もいる。仕方なく、生まれは東京の端っこで23区内だし、小学生の時に父が埼玉に家を買うまでは、祖父の代にも都内の団地住まいだったと事実を告げる。すると何故だかそのほとんどが、がっかりした顔になるのだ。  この苗字のおかげで人に忘れられる事はないが、めったなことも出来ない。小さな頃からずっと、常にいい子で居なければならなかった。それが現実世界の彼女の人生をいくぶん窮屈なものにしているのだと、彼女自身は信じている。 「よく来てくれたね、何年ぶり? アタシ絶対振られると思ってたよ」そう言って花嫁は笑った。 「100 年くらい?」  彼女も笑った。 「二次会、出れるんでょ? キュウ」 「うん、夕方までならね」 「大丈夫よ。ここの二階。披露宴済んだら、すぐ模様替えしてやるんだから。ロスタイムはなし。いい男紹介するし」  新婦はすっかりご機嫌だ。 「ありがとう。ただそっちの趣味はアンタとはあまり……ね」  冗談めかして言った九だが、半分以上は本気だった。 「相変わらず言う言う。じゃ、楽しんでってね」  彼女は本当に嬉しそうに言って 3階のチャペルを出て行った。もちろん、新郎と一緒に。  その後ろ姿を見送りながら思う。 (ウチは結婚なんてしないんだろうな)  だいたい今まで、恋だってロクにした記憶がない。20年以上生きているのに、ちっとも。  そして、去年、とあるクリスマスパーティーで知り合った、『I』と言う男を思い出しかけて、その顔がうまく思い浮かばないことに気づいた。でも、別段、不思議とも思わなかった。  人は写真のように、他人の人相を記憶しているものではないのだ。現にたった今、親友の夫の顔を説明しろと誰かに言われたなら、彼女は一言も伝えられそうになかった。 (ウチは頭が悪い)彼女はいつもそう考えては、自己完結してしまうのを癖にしていた。そして誰にも聞こえないように溜息をつくのだ。 「ほぅ」
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