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目の前に青が広がっている。
まるでサファイアを敷き詰めたような広大無辺の海。瑠璃色に煌めくそれは、夏の焼け付くような日射しを乱反射させ、ゆらゆらと揺らめいていた。
油断すれば、吸い込まれてしまいそうなくらいに深く青い。
海は好きだ。夏は嫌いだ。
はぁ、と大きな溜め息を吐きながら画用紙に筆を走らせると、筆の通った跡が薄い青色に滲んだ。
画用紙に幾重と塗られた青色。青が重なった回数に応じて濃淡が変わり、海が風に凪がれている様子を描いている。
海と画用紙から視線を外し、俺はあたりを見回した。綺麗で静かな砂浜には俺以外の人影は全くなく、ただ波の打ち寄せる音だけが砂浜に虚しく響いている。
手に持った筆やら画用紙やらを投げ捨て、俺は浜辺に寝転がる。砂が首筋に張り付き、少しくすぐったい。だが心地よかった。
視線の先には眩しい蒼穹。
その底抜けに純粋な青色は、海と呼応した夏の息吹き。
目を瞑ると聴覚が冴え渡り、海鳴りと共に後方の雑木林から蝉の大合唱が聴こえる。
ぱたん、と乾いた音。きっとスケッチブックを立て掛けていたイーゼルが倒れたのだろう。起こす気にもなれない。
時間は、腐るほどある。
夏は嫌いだった。
幼い頃から、夏休みになると藤色町の祖母の家で過ごしていた。
藤色町は三方を山に囲まれ、一方が海に面した閉鎖された町。文明から取り残され、その対価に絶美の景を守り続ける町。
俗世から隔離された世界。
そこでは全てが退屈だった。
毎年、夏になると藤色町に連れて来られ、夏休みが終わるまでずっと藤色町で送る日々。
何でも出来る、だが何もない。藤色町は、まるで大きな鳥籠のようだった。
心のどこかで信じていた。
いつか、この屈託した日常をブチ壊してくれる人が現れるなんて、まるで小説や映画の使い古された展開で、願ったところで決して叶うはずのない絵空事を。
寝そべった砂浜から、遥か彼方に広がる大空を見上げる。
全てを捨ててこの身を投げ出せば、空はどこか見知らぬ世界へ連れて行ってくれるのだろうか。
あやふやな意識のまま、そんな下らないことを考えていた。
「こんにちは」
刹那。
頭上から降る透明な女声。
夏は嫌い、だった。
「今日はいいお天気ですね」
――夏海に、逢うまでは。
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