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昔から絵が好きだった。景色を絵で表現するのが好きだった。
毎年藤色町に来る時はいつも、何冊もスケッチブックを用意し、絵の具を準備して、藤色町で過ごす時間の殆どは絵を描くことに割り振った。
暮らしが退屈でも、雄大な自然を描いている間は、そんなことを忘れられた。
今日も、そうだと思っていた。
突如現れた影に、視界が遮断される。眩しかった陽光と、青だった視界が黒に変わる。
俺は突然のことに驚き、ぼうっとしていた焦点を合わせると、見目麗しい少女の顔が見えた。
飛び跳ねるように上体を起こし、即座に振り向くと、やはりそこには少女が立っていた。
泡沫のように、儚くて。
蝶々みたいに、脆そうで。
美しさの裏側に、計り知れぬほどの影が潜んでいる気がして。
だが俺は。
一目で、少女に惹かれた。
肩口が大きく開いた真っ白のワンピースに、蝶が刺繍されたピンクのビーチサンダル。
肩くらいまである少女の髪は、今は目深に被った麦わら帽子で隠されていた。
少女は何故かその麦わら帽子の鍔を固く握りしめ、自身の表情が見えないように努力している。
帽子から時折覗く顔は、はにかんだような、後悔しているような、複雑な表情だった。
「……突然ごめんなさい……」
少女は、今にも消えそうなくらい小さな声でそう言った。胸を押さえながら、呟くように。
「昨日もここで絵を描いていたから……もしかしたら、今日も会えるかなって思って……っ」
鈴を思わせる、高く澄んだ少女の声は、所々途切れながら、手探りで言葉を紡いでいく。
言葉を繋ぐ度に、より一層少女は麦わら帽子を強く握る。その顔は紅潮していた。
少女を見ていると動悸が早まり、胸が苦しくなる。俺の体が火照っていくのが判った。
今まで体験したことのなかった、この熱い感情を噛み締めた。
これが『好き』か。
一目見た時から、俺は間違いなく彼女を好きになった。
瞬間。
俺の脳裏を掠めるヴィジョン。世界から一切の音が消え去り、意識が夢幻へとトリップする。
燃え盛るような深紅の光。
手を伸ばす。君には届かない。
焦げ付きそうな紅蓮の視界は眩しすぎてもう何も見えない。
それでもいい。
触れるだけでいい。
君のそばにいさせてくれ。
どうか神様。
暗転。
「私が死んだら、忘れてね」
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