優しい祈り

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優しい祈り

その日も遥と退社時刻の確認を取り合い、18時に駅で待ち合わせた。  駅は相変わらずの人混みで、遥は改札の流れから逆らうのにヘトヘトになっていた。  僕たちは改札の流れの中で、お互いを確認し合い、駅の出口へ向かう。  駅前の交差点で一息つき、僕は遥に提案する。 「今度から待ち合わせはこっちにしない?」 「うん、私もそう言いたかったところ」  それからいつもの様に、途中でスーパーに立ち寄って、缶ビールとスナック菓子を買い、遥の自宅まで歩く。  遥の歩くテンポがいつもより遅い気がして、僕は訊ねる。 「もしかして、まだ足が痛む?」  遥は困った顔で頷く。 「うん、痛いというか、熱いというか、なんか変なんだよ。あれから」 「大丈夫かなぁ」 「いつも痛むって訳じゃないんだよね。おかしいなと思うと、すぐ直るし。実際本当に変だったのはさっき駅を出る辺りまでで、今はほとんど感じない」 「何だろう?」  僕たちは少し歩速を緩め、ゆっくりと歩く。  遥が嬉しそうに言う。 「なーんか、ゆっくり歩きも良いね。景色の見え方がちょっと違う」 「そうだね」  僕は繋いだ手を、いつもよりもゆったりと大きく振り上げる。  5月に入ってからは陽もすっかり長くなり、黄昏時でもまだ少しだけ明るさを残していた。  遥も繋いだ手を振り上げて、ブーンと声に出す。  おどけた調子の遥に、僕が笑いかける。  夕やけの空に、ほんの少し白く薄雲が流れる。  ゆっくりと夜がこっちに向かって来ている。  僕も遥もまるで時間の流れを遅らせるみたいに、ゆっくりと歩く。  遥の家では順子さんが、すっかり待ちくたびれていた。すでに夕飯の支度が出来て上がっていて、我々が到着すると順子さんがテレビを消して台所に向かう。 「少し遅かったんじゃない? こう見えてもタイミングを計りながら夕飯作ってるんですけど」  遥が手伝いに台所へ駆け寄って、順子さんに言う。 「ちょっとゆっくり歩いてきたんだ。夕暮れの風が気持ち良くて」  僕が口をはさむ。 「実は遥がここのところ足が痛むって。それで駅からゆっくり歩いてきたんです」 「大丈夫なの?」  順子さんが遥を心配する。  遥が順子さん特製のエビチリをテーブルに運びながら言う。 「歩き方がおかしいのか、ちょっと痛むんだけど、いつもすぐに治まるから」 「それならいいんだけど、お医者さんにも診てもらいなよ」 「うん、それもちょっと考えてる」  それから我々は順子さんのエビチリに舌鼓を打ち、恒例のスナックタイムに入る。  話題は遥の仕事の話に。  どうやら遥は新商品のコピーを任されたようで、かなりのプレッシャーだとは言ってはいるが、やりがいも感じているようにも僕には見えた。  僕は遥に正直に言った。 「すごいなぁ、僕なんて仕事で凡ミスばかりだよ」 「私だって同じ。なのにどうして今回の件で選任されたのか謎だよ」 「でも本当に凄いよ。もしこれが上手くいくともう一つ上のステージに行けそうだね」  順子さんも嬉しそうに笑う。 「まあ、とにかく二人ともすごいぞ! 私は君たちの頃にはすでに子育てに奮闘中だった。そんな我が娘も、その彼氏もすごい!」 「お母さん、酔っ払ってるの? やめてよ」  遥が順子さんに言う。  でも確か順子さんは20歳で遥を出産し、僕たちの歳の頃にはすでに遥は4歳たった筈だ。  遥の話では遥の父親は小学校に上がる前に亡くなっていて、数年間は原因不明の病に悩まされていたのだと聞く。  それならちょうど我々のこの歳の頃、順子さんは育児と看病とで大変だったに違いない。  順子さんの明るさは、そうした苦難を通り抜けた人間だけに与えられる強さなのかもしれない。  遥の父親とはいったいどんな人だったのだろう。ふとそんなことを考えていると、遥が口火を切る。 「お母さん、お父さんはどんな感じで育児に参加してたの?」  順子さんはしばらく考える。  意識的に封印してきた記憶を紐解くような感じだった。  遥の父親の話になったのは、これまでで初めての事だった。 「君のお父さんはね、何せ不器用なのよ。遥をお風呂に入れてってお願いしてもちっとも出来なくてね。壊れちゃうんじゃないかって怖がって。でも一度成功したらあとは毎日お風呂に入れてくれるのよ。おむつ替えもそう。はじめはバカみたいに怖がって近寄らないんだけど、一度成功すると嬉しそうにやり始める。でも君たちの年齢の頃は病気であまり身体が動かなくなって来てたから」  順子さんは少し寂しそうに微笑んだ。遥が訊ねる。 「お父さんはそんな時どうしてた?」 「うん、泣いてた。横になりながらポロポロ涙を流してた。そして、祈ってた」  僕には順子さんが、話しながら少しだけ涙ぐんでいるようにも見えた。  でも遥は少し呆れたようにつぶやく。 「祈るって…」 「君のお父さんは、遥だけは無事に、健やかに育ちますようにって」 「何それ…、自分の回復を祈りなよ…」 「本当にそうなんだよね。君のお父さんは君の事ばかり…」  僕は何と言ったらよいのか、口をはさむ余地がなかった。  でも少しだけ遥のお父さんが見えた気がした。  そして遥が困った人を放っておけない性分も、お父さんとしっかり繋がっている気がした。  この家には遥と順子さんの二人だけしかいないのだけれど、お父さんの温かい祈りが、これまでの二人を平穏に過ごさせてくれているのだと思った。  遥はお母さんから聞いた話として、こんなことも明かしてくれた。  遥の父親は、遥が産まれるとすべての人に優しくなったのだと。困った人がいるとすぐに駆け寄ったのだと。そのことを不思議に思った順子さんが理由を尋ねると、このおせっかいの先の先に優しい世界が広がり、誰かが遥を助けてくれるのだと答えたと云う。お父さんの想い描いた世界で遥は健やかに育った。そして遥もまた優しい世界を思い描いている。父と娘の描く世界が、どんな世界よりも優しくあれ。  その時の僕は心からそう祈っていたのだ。
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