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旅人がいた。
旅人はひとりで、あちらの大陸、こちらの島、と、見知らぬ土地を渡り歩いていた。
様々な場所で羽根を休めながら、沢山の人と出会い、歌い、語らい、そして別れては、また次の新たな土地へと旅立った。
時にはならず者に狙われることもある。凶暴な獣に遭遇する事もあった。
そうした危険を、旅人は携えた剣で振り払った。刃は命の証の鮮やかな赤を散らして、脅威を退け、旅人を守る。
やがて歩き疲れた旅人は、焚き火に灯された火のもとで目を閉じた。
短く浅い眠りの向こう、閉じた瞼の裏側に映るは、奥底に沈めた筈の記憶たち。過去という事実の糸に繰られた夢たちの舞いは、未だはっきりと生きた色を纏う。
旅人は昔、戦人だった。
たなびく煙と交差する声の中、厚い鎧を纏い、剣をふるって戦場を駆け抜ける。
どこかで泣きわめく子供の声が聞こえる。子を探す母の声が聞こえる。傷を負った兵士のうめき声が、戦の凶刃から愛する者を守ろうとする声が否応なく耳に入る。
初めは彼も、そんな戦の犠牲者であった。国を守るため、しいては自分の大切な人たちを、日常を守るために刃を手にした。
いつしか自分の家よりも、戦場にいることの方が多くなった。それでも帰るべき場所を守るために戦い続けた。生き残るために、生かすために。
やがてボロボロに傷ついた体でたどり着いたのは、朱い煙を巻き上げる故郷だった。
同郷の仲間はみな死に絶え、ただ一人引きずってきた体には、あまりに残酷な光景。大声で叫んでみても、誰の声も返っては来ない。鍵の壊された扉の中を覗き、くすぶる壁の間を歩き、帰りついたのは己の伴侶が待つはずの家。
彼女は、そこにいた。
微笑んでいた。
熱の残る暖炉のそばに、頬を赤く染めて。
大きく膨らんだ腹を、大事そうに、慈しむように抱いて。
息絶えて、いた。
陽気とさえいえる暖かな空気の渦巻く中、抱いた体は既に冷たくこわばっていた。それでもあくまで穏やかな顔に、半ば泣きそうな声で話しかける。
いくら話しかけたところで、返事は返ってこなかった。
これほど、近くにいるというのに。
これほど、叫んでいるというのに。
どこまでも、彼女は遠い。
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